「母かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて瞬を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――父さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか父さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を傾げた。
「父さんの金時計です。柘榴石の着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「一はまだ当にしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が預っているから、私から、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事を重に云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に逆うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚がないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を襲がなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が母かさんの云う事を聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」