「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。御生だからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、父っさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら嘘ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父さんがそう云うんだから」
「嘘よ、阿父様がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を袖で隠さんばかりに、机から手本へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏り替えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の眼を掠めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
両手で叮嚀に抑えた頁の、残る一寸角の真中に朱印が見える。
「見留じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年幾歳になるね」