「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
多少苦々しい気色に、煙管でとんと膝頭を敲いた父さんは、視線さえ椽側の方へ移した。最前植え易えた仏見笑が鮮な紅を春と夏の境に今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは厄介ですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。猫撫声で長ったらしくって――私ゃ嫌だ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら父さんは、手の平を二つ内側へ揃えて眼の球をぐりぐり擦る。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――欽吾がうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が家を出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料簡でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのが厭だと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気た事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」