「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変で兄さんに面喰わしてばかりいるね」
答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫落ちた。宗近君は親譲の背広の隠袋から、くちゃくちゃの手巾をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗き込む。
「糸公厭なのかい」
糸子は無言のまま首を掉った。
「じゃ、行く気だね」
今度は首が動かない。
宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体だけを故へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
糸子はようやく手巾を取上げる。粗い銘仙の膝が少し染になった。その上へ、手巾の皺を叮嚀に延して四つ折に敷いた。角をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」