二、離魂病りこんびょう
『離魂病』という用語は、「影」「念」「化生けしょう」を示す「離魂」の言葉と、「病気」や「疾患」を示す「病」の言葉で構成される。文字通りの表現で「念の病気」と言っても良いだろう。和英辞典で「離魂病」の意味が「心気症ヒポコンデリー」の定義で見付かるであろうし、医者達は実際この近代的な感覚で専門用語を使う。しかし古くからの意味は、分身を造り出す心の疾患であり、一冊全体がこの異様な病にまつわる不思議な文献が存在する。それは恋愛を原因とする激しい絶望や恋慕の影響下で、苦しむ者の精神が分身を造り出すのだろうと、以前はチャイナと日本の双方で信じられていた。このような離魂病の被害者は寸分違わぬふたつの体を持って現れ、この体のひとつは、そこには居ない愛する者の元へ会いに行き、もう一方は家に残ったままである。
(私の「異国情趣と回顧」の「禅書の一問」の章から読者はこの主題の典型的なチャイナの話を見付けるだろう──娘むすめ倩しんの話)分身と生き霊の幾つかの素朴な信仰形態は、おそらく世界のどの地域にも存在するが、この極東の多彩さは、恋愛が分身の原因になると信じられていたから特別興味深く、女性に有りがちな苦悩が対象である……離魂病という用語は、精神の乱れが化生を造り出す想定と同様、その化生にも適用されているようだ。それは「念の疾患」と同様に「霊的分身ドッペルゲンガー」をも意味している。
──この必要な説明と共に、次の狂歌の質が理解できるようになる。狂歌百物語に出てくる一枚の絵は、一杯のお茶を女主人──「念の病気」の被害者──へ差し出すのを不安がる侍女が見える。侍女は目の前の本物と化生の姿の間で見分けができず、その状況の難しさは翻訳した最初の狂歌に示されている──
こやそれと
あやめもわかぬ
離魂病、
いずれを妻と
引くぞわずらう
〔こちらなのか──あちらなのか、見分けが付かない離魂病のふたつの姿 。どちらが本当の妻か見付け出すのは──精神の苦悩であろう全く。〕 ふたつ無き
いのちながらも
かけがえの
からだの見ゆる──
影のわずらい
〔命がふたつ無いのは確実だ──にも関わらず、影の病のせいで余計な体が見える。〕 長旅の
夫おとをしたいて
身ふたつに
なるを女の
さる離魂病
〔離れた旅に在る夫のあとを慕う女は、霊的な病気のため、こんなふたつの体になる。〕
見るかげも
無きわずらいの
離魂病──
おもいの他に
ふたつ見る影
〔霊的な病気の為に、見える影が無い(と言われている)けれど、──予想外の二つの影すら見える。〕
離魂病
人に隠して
奥座敷、
おもてへ出さぬ
影のわずらい
離魂病の苦悩、彼女は奥の部屋へ人々から隠れ去り、家の前へ出ようとはしない──影の病のせい。〕
身はここに
魂たまは男に
そい寝する──
こころもしらが
母がかいほう
〔体はここに横たわるが、魂は遠くへ行って男の腕に眠る──そして白髪の母は、娘の心をよく知らず(体だけ)看病している。〕
たまくしげ
ふたつの姿
見せぬるは、
あわせ鏡の
影のわずらい
もし、化粧台に座っている時なら、鏡に映った彼女の顔をふたつ見る──影の病の影響下で合わせ鏡になったからであろう。〕