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九州の学生とともに 4_小泉八云_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网

时间: 2024-10-24    作者: destoon    进入日语论坛
核心提示:4 いくつかの東洋的な感情がときどき議論を通して引き出されている。この議論は私があらかじめクラスの者に口頭で話して聞かせ
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 いくつかの東洋的な感情がときどき議論を通して引き出されている。この議論は私があらかじめクラスの者に口頭で話して聞かせたものに基づいて、それについて学生の作文や口頭のコメントが寄せられたものである。この議論の結果については、後に述べることにする。議論のときまでに、私は上級のクラスの学生にはかなりの数の物語を話して聞かせていた。多くのギリシア神話を話したが、なかでもエディプスとスフィンクスの話(d)は、その隠されたモラルゆえにとくに彼らを喜ばせた。ァ‰ペウスの話(e)は、西洋音楽の伝統がそうであるように、彼らはまったく興味を示さなかった。
私はまた現代の話も幅広く話して聞かせた。ホーソーン作『ラッパチーニの娘』という驚くべき物語は彼らが非常に好んだ。ホーソーンの霊は、学生なりの解釈をさぞかし大いに喜んだに違いなかろう。『モノスとダイモノス』も気に入ったようだ。ポーの素晴らしい小品の『沈黙』は、私を驚かすような形で評価された。他方で、『フランケンシュタイン』(f)はあまり感動を与えなかった。誰も本当とは受け取らなかった。しかし、西洋人にとってはこの物語はいつも格別な恐怖心を引き起こすものである。それは生命の起源に関するヘブライ的観念の下に発展してきた感情へのショック、また神による禁止の恐るべき性質、さらに自然の秘密のベールを裂こうとする者たちや、無意識にせよ嫉妬深い創造主の仕事をあざける者たちに下される恐ろしい罰があるためである。しかし、東洋人は、このような暗鬱な信念によって曇らされていない――神と人間との間に距離を感じない感情は――あらゆる行ないの結果を報いか罰かにまとめあげる統一的法則によって支配される多様な集合として人生を理解するので、この物語の幽霊に関するものは共感をそそらなかった。感想を書いた者のほとんどは滑稽なあるいは半ば喜劇的な寓話としてしか見ていなかった。これらの事があった後に、ある朝、学生たちに「西洋の最も強く道徳的な話」を所望されたときはどうしたものかとても困った。
 私はいきなりアーサー王伝説の話をしてその効果を試してみようと思った――危険な領域へあえて入り込むことだとは重々承知の上であるが。また、その話はきっと誰かがきっぱりと批判するであろうとも思っていた。この物語は道徳という点では「とても強い」どころではない。このため、私はその結果を聞きたくて仕方がなかったのである。
 そこで、トマス?マロリーの『アーサー王の死』一六巻にあるボールス卿(アーサーの庶子)の物語を彼らに話した。「ボールス卿は、自分の弟であるライァ⊥ル卿が茨を巻き付けた木で殴られており、――また他方では乙女が襲われているのを――目撃した。そして、ボールス卿は自分の弟はそのままに残して、乙女を救うことにした――その後、弟のライァ⊥ル卿は死んだと告げられた。」しかし、私はこの素晴らしい伝説にイメージされている騎士道の精神については彼らにはとくに説明しなかった。それは、物語のありのままの事実を聞いて彼らがどんな感想を述べるかを聞きたかったからだ。
 それはつぎのようなやりとりになった。岩井という学生(g)が言うには、「キリスト教はすべての同胞は兄弟であると言っていますが、それが正しいとすれば、マロリーの騎士の行動はキリスト教の原則に反しています。彼の行為は世界に社会がなかったならば正しいでしょう。しかし、社会は家族から形成されて存在するのだから、家族の愛は社会の中で最も強いものであるはずです。そして、騎士の行いは家族愛に反しました。そして、また社会に対してもです。彼が従った主義はあらゆる社会に反するばかりではなく、あらゆる宗教やあらゆる国の道徳に反したものです。」 折戸はつぎのように言った。「この物語は確かに道徳的ではありません。それが語っているものは、愛と忠義についての私たちの観念に反するものですし、天道にも反しているように思えます。忠義というのはたんなる義務ではありません。それは生まれながらの感情です。そしてそれは、すべての日本人の性質の中に存在します。」「恐ろしい話です」安東が言った。「博愛それ自体は兄弟愛の発展したものに過ぎません。見知らぬ女性を救おうとして、自分の弟を見殺しにした男は邪悪な人間です。おそらく彼は恋情にかられたのです。」
「いいや、違うんだよ」と私が説明する。「彼の行為には利己的なものはない――つまりそれは英雄的な行為と解釈されなければならない、と私が言ったことを君は忘れているよ。」
 安河内が発言した。「私はこの物語の説明は宗教的なものに違いないと思います。私たちにはそれは不思議に思えます。しかし、それは私たちが西洋の観念をよく理解していないからかも知れません。むろん、見知らぬ女性を救うために自分の弟を見捨てることは私たちの正義の理解に反します。しかし、その騎士が純粋な心を持っていたとすれば、ある約束か義務のためにそうしなければならないと考えたのでしょう。その場合でもそうすることはとても苦痛であるか、恥ずべきことであるように思います。そして、彼は、内心で人としての道理に背いて行動しているという気持なしにはそんなことをすることはできなかったでしょう。」
「その点では君は正しいよ」と私は答えた。「しかし、ボールス卿が従った感情というのは西洋社会の勇敢かつ高貴な人たち――その語の常識的な意味において、宗教的とまったく呼べない人びとにおいてすら――の行動になお影響を与えているものなのだよ。」
「でも、私たちはそれはとても悪い感情だと思います」と岩井が言った。「私たちは別の社会の集団についての他の話も聞いてみたいです。」 そこで、アルケスティスの不朽の物語(h)を学生らに話すことを思いついた。私はその時、その神聖なドラマにおけるヘラクレスの性格は学生たちにとってとても魅力的であろうと考えていた。しかし、学生たちの意見から私が勘違いをしていたことが明らかになった。誰もヘラクレスには言及しなかったのだ。実際ヒロイズムについての私たちの考え方、意思の強固さや死をも厭わぬことは日本の若者には容易にはアピールしないということを思い出すべきであった。というのも、これは日本の紳士の誰もそのような資質は当然のことで例外的であるとは考えていないという理由からである。日本人の男子はヒロイズムを当然のことと考えているのである――人間性に属するものおよび、それと切り離せないものである。彼は、女子は恥もなく恐れるかもしれないが、男子はけっして恐れないと言うだろう。それゆえ、腕力の単なる理想としてのヘラクレスには東洋人はほとんど興味を示さないのだろう。日本の神話には力強さを人格化した話がたくさんある。また、その上で、真の日本人の間では、力強さよりも手際よさや機智、敏捷さの方が賞讃されるのである。日本の少年の誰も大男の弁慶のようになりたいとは思っていない。義経は細身であり、弁慶を柔軟に手玉に取って仕舞には家来としたのであるが、あらゆる若い日本人の心には親しみの持てる、完璧なサムライの理想であり続けている。
 亀川が意見を述べた。「アルケスティスの物語あるいはすくなくともアドメートスの話は、卑劣で不忠義かつ不道徳な物語です。アドメートスの行為はまったく非道いものです。それに反して彼の妻は実に高潔かつ貞淑です――恥知らずな男には出来すぎた妻です。アドメートスの父も、もし自分の息子が優れた人物ならば、彼のために喜んで死んだだろうと考えます。アドメートスの卑劣さに愛想尽かしていなければ、父はそんな息子のために喜んで死ぬだろうと思います。それにしてもアドメートスの家来たちは、何と不忠義なんでしょうか! 彼らは王の危難を聞くや否や宮殿に駆けつけ、謙虚に王の身代わりになって死ぬことを乞うべきです。王が卑怯で残酷であったとしても、そうするのが彼らの義務でした。彼らは王の家来です。彼らは王の恩顧を受けることで生きているのです。けれど、なんと彼らは不忠義なのでしょうか! こんな恥知らずな連中がいる国は早晩滅び去るに違いありません。もちろん、この話が言っているように、生きることは楽しいことでしょう。誰が命を惜しまないでしょうか?死を厭わない者がいますか? けれども、勇敢な男子――忠義なる男子――は、義務がそれを与えよと求めるとき、自分の命をあれこれ考えるべきではありません」「けれど」と水口が言ったが、彼は遅れてきたので話の初めの方は聞いていなかった。
「おそらくアドメートスは、孝行に突き動かされたのでしょう。私がアドメートスだったら、家来の誰も自分のために死なないことが分かったならば、妻につぎのように言ったでしょう。『妻よ、父上のみを残して行くことはできない。父上には他に息子がいないからだ。また、彼の孫たちはまだ若すぎて父上にとっては役に立たない。だから、私を愛しているなら、私の身代わりに死んでおくれ』と。」 安河内が「君はこの物語を理解していないんだよ」と言った。「孝行心などアドメートスには存在しない。彼は父が自分の身代わりになって死ぬことを望んだんだ。」「ああ、そうか!」本当に驚いた声で、水口は謝った。「それは良い話ではなかったんですね、先生!」
 川淵は「アドメートスは極悪非道の輩です」ときっぱりと言った。「彼は憎むべき卑劣漢です。なぜと言うに、死ぬのを恐れているんですよ。彼は家来が自分のために死ねと欲した暴君です。彼はまた、老いた父親が自分の身代わりとなって死ぬことを望んだ親不孝者です。彼は、自分の妻――幼い子どもたちがある、か弱い女性――に自分が男としてできないことを代わりにさせた冷酷な夫です。アドメートスほど下劣な奴がおりましょうか?」
「けれど、アルケスティスは」と、今度は岩井が言った。「妻のアルケスティスはあくまでも善人です。なぜなら彼女は子どもたちやその他のすべてを諦めました――ちょうどブッダのように。しかし、彼女はとても若い。なんと真実に溢れ、勇敢なんでしょう! 彼女の顔の美しさは春の開花のように輝いていたでしょう。しかし、彼女の行いの美しさは、何千何万年も記憶されるべきでしょう。彼女の魂は永遠に宇宙を飛翔するでしょう。彼女は今は形がありません。もっとも親切な生きている教師たちよりも私たちにもっと親切に教えてくれるのは姿?形のないものです――つまり純粋で勇敢なまた賢明な行いをした人たちの魂です。」
「アドメートスの妻は」と隈本が言った。彼の判断は厳格になりがちであった。「まったく従順です。けれど彼女はまったく非難することが出来ない訳ではありません。というのは、死を前にして夫の愚かさを徹底して叱るのが、彼女の最高の義務でした。彼女はこれを行いませんでした――先生がこの話をされた限りにおいてですが。」 財津という学生は「なぜ西洋人はこの話を美談と考えるのでしょうか? 私たちには理解できません。それには私たちを憤慨させるものがたくさんあります。というのは、この話を聞くと、自分たちの両親のことを思わないではいられないからです。明治維新以来、しばらく多くの困難がありました。しばしば両親たちは飢えていました。けれども、子どもたちにはいつも十分な食べ物がありました。時として彼らは生活するためのお金にも事欠きました。なのに、私たちは教育を受けています。要するに、私たちが教育を受けることは両親に費用を掛けることです。私たちを育てるのに大変な苦労と困難とがあったにもかかわらず、親たちはあらんかぎりの愛情を注いで育ててくれました。
愚かだった子ども時分には両親に至らぬ心配をかけたこともあります。このため、私たちは両親らに決して十分に報いてはいないと思っています。このような訳で私たちはアドメートスのような話は好きになれません。」
 休み時間を知らせるラッパが鳴った。私は一服しようと隣の運動場に出た。数名の学生が私とともに連れ立った。彼らは銃や銃剣を持っていた――つぎの時間の軍事教練のための準備であった。うちの一人が言った。「先生、作文の別のテーマを出して下さい――易しすぎないやつです。」(i)
 私は聞いた。「もっとも理解できないものは何か? こんなテーマでいいのかい?」 川淵という学生が言った。「それは解答するのに難しくないです――英語の前置詞を正しく使うことですよ。」「日本人の学生が英語を勉強する場合は確かにそうだね。」と私が答えた。「けれど、私が言っているのは、その種の困難さのことではないんだよ。すべての人が一番理解できないようなものについて君たちの考えを書いて貰おうと思っているのだよ。」
 安河内が「宇宙ですか? それはテーマとして大きすぎます。」と言った。
「私が六歳の時です」と折戸が言った。「ある晴れた日に海辺を歩いていました。その時に、世界の広大さを思いました。わが家は海辺の近くにあります。その後、私は宇宙の問題は煙のようについに消えて行くものだと教えられました。」 宮川はつぎのように話した。「一番理解できないのは、なぜ人が世界に生きているかということです。食べ、飲み、幸福を感じたり、悲しくなったり。学校へ行き、成人しまた結婚する。そして子どもを持つ。夜には眠り、朝には起きる。そして老けていき、髪は初めのうちは灰色から次第に白くなって行く。彼らはそのうち次第に衰弱していき――やがて死を迎える。
 彼らは一体人生において何をするのでしょう? 彼がこの世で行ったことと言えば、飲食し睡眠し、また起きることです。市民としての職業が何であれ、長い時間骨折って働くのはたんにこれらをし続けることができるということです。こんな目的のために、人はこの世に居るのでしょうか。食べ、飲み、眠ること? 毎日同じ事の繰り返しにすぎませんが、決して倦み疲れることを知りません! 不思議な気がします。」「誉められると喜び、罰を受ければ悲しくなる。金持ちになれば自分で幸福だと思います。貧しくなればとても不幸に思うでしょう。幸福とか悲しみは一時的なことにすぎません。なぜ一生懸命に勉強しなければならないのでしょうか? いかに著名な学者になったとしても、死ぬとき何が残されているというのでしょうか。ただ骨だけです。」 宮川はクラスでも一番陽気で、ウイットにも富んでいる。彼の愉快な性格と彼の今の言葉の対称的なことが私をぎょっとさせた。このような憂鬱な思考は浮かんでは消える類いのものだが――とくに明治以降の――若い東洋人の精神にしばしば見受けられるものである。それらは夏の雲の影のように通り過ぎてゆく。また、それらは西洋の青年期に見られるものより深い意味はない。日本人は思想で生きているのではない、ましてや感情ででもない。義務で生きているのである。だからといって、それらに付きまとわれるのは推奨されるべきでもない。
「思うに、君たちにとってよりふさわしいテーマとは空だね。」と私は言った。「今日みたいな日に空を眺めるとき、空が私たちの中に醸し出す感じだよ。見てご覧、なんと素晴らしいんだ!」
 見渡す限りの紺碧の空であった。地平線には水蒸気もない。常日頃ははるか遠くの山の頂は見えないが、今日は明るい陽光の中に、くっきりと透けて見え、聳え立っている。
 その時、神代が天空を見上げながら漢文を朗々と吟じた。
「かくも高邁なる思想のあらんや? かくも広大なる精神のあらんか?」「今日は夏の日と同じように美しい――木の葉は散りかけて、蝉も行ってしまったがね。」と私が言った。「先生は蝉はお好きですか?」と森が尋ねた。
「蝉の声を聞くのはとても愉しいことだね。」と私は答えた。「西洋にはあんな蝉はいないよ。」
 折戸が「人生は蝉のそれに比較されていますね――空蝉の世とか。人の喜びも若さも蝉の鳴き声のように短くはかない。蝉のように、人もある季節に現れてはやがて去ってゆきます。」と言った。
 安河内が言う。「もう今時分蝉はいないよ。たぶん先生は淋しく思われているのだ。」
「僕はちっとも淋しいとは思わんぞ」と野口が反論する。「蝉たちは僕らが勉強するのを邪魔するよ。鳴き声はすこぶるうるさくて堪らん。夏にその声を聞くと疲れてしまう。蝉の声は疲れの上にさらに疲れを倍加させるから僕らはつい眠ってしまうんだ。読み書きしたり、考えたりするとき、蝉の鳴き声を聞くともう何をする気力もありゃせん。それで、僕らはこの昆虫が死んでしまえと願っているんだよ!」「たぶん君はトンボが好きだろう」と私が示唆した。「彼らは私たちの回りを飛び回っている。けれど音は立てないしね。」
 神代が言う。「日本人はみんなトンボが好きなんですよ。ご存じのように、日本は秋津洲あきつしまと呼ばれていますが、それはトンボの国(蜻蛉島あきつしま)という意味ですからね。」
 私たちはトンボのいろんな種類について話した。彼らは私が今まで一度も見たことのない種類について話してくれた――精霊トンボあるいはユウレイ?トンボというもので、死人と不思議な関係があるという。また、彼らはヤンマ――というとても大きな種類――について話したが、古い歌にはサムライがヤンマと呼ばれたと話してくれた。若い武士の長い髪がトンボの形をした結び方で結ばれていたからであるという。
 再びラッパが鳴った。将校教師の「アツマレー!」という大声が響き渡った。
 けれども、若者たちはちょっとぐずぐずしている。つぎのように訊いた。「では理解するのがもっとも難しいものというのは何でしょうか? 先生。」「いいや、もうよそう」「空だよ。」と私が答えた。その日一日、漢文の言葉の美しさが私の脳裏を去らず、高揚した気分で満たされていた。
「かくも高邁なる思想のあらんや?かくも広大なる精神のあらんか?」
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