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博多にて 1_小泉八云_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网

时间: 2024-10-24    作者: destoon    进入日语论坛
核心提示:博多にてAT HAKATA小泉八雲 Lafcadio Hearn林田清明訳1 人力車で旅行していて、できるのはあたりを眺めることと夢見ることく
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博多にて
AT HAKATA
小泉八雲 Lafcadio Hearn
林田清明訳
 人力車で旅行していて、できるのはあたりを眺めることと夢見ることくらいである。
揺れるので読書はできないし、自分のと連れの人力車が二台並んで走れるような道幅があったとしても、車輪の回る音や風の音がするので会話することもできない。日本の景色の特徴にも慣れてくると、旅行の間、長い休憩の時を除けば、強く印象づけられるような新規な事柄でもなければ、もう見ようともしないのである。道は、たいがいは水田や野菜畑、それに小さな村落を抜け――そして、限りなく続いている緑や青い色の丘の間を通っている。時には菜種ナタネの花の、燃えるような黄色で溢れた平野や、蓮華花ゲンゲバナの紅紫べにむらさき色で覆われた谷を横切るときなど、実にはっとするような色彩が広がっていることもある。しかし、これらとて、とても短い季節の、ほんの一瞬の輝きにすぎない。広大な緑一色というのは、単調で飽きてしまい、たいていはどんな能力にも訴えかけない。おそらく、頬にあたる風に吹かれながら、物思いにふけったり、こっくりと居眠りするのが関の山だし、たまさか余計な力のために人力車が揺れたときにだけ、目が覚めたりする。
 秋に博多へ旅行した時もそうであったが、やはりまわりを眺めたり、夢を見たり、うつらうつらと居眠りをしていたのである。トンボが飛んでいるのや、見渡すかぎり広がる水田の畝が限りなく繋がっているのや、水平線の彼方に見慣れた山の峰がわずかに移りゆく様や、万物の上にあって、青空に浮かぶ白雲の変化する様を眺めたのだった。
が、いったい何度、九州の同じ景色を眺めなければならないのか、また、目覚めるような素晴らしいものがないと嘆かねばならないのか、と自問する始末であった。
 ふいに、しかし、とてもゆっくりとある考えが浮かんできた。それは、ありうべき光景の最も素晴らしいものは、世界のごくありふれた緑の中に――つまり、生命の終わりなき出現の中に存在するのではなかろうか、と。
 古来、至る所で、緑の生物体は、目に見えない始まりから――柔らかい大地や硬い岩から――成長しているし、人類よりもはるかに古くから、おびただしく、また沈黙して音を出さない種を形作っている。その目に見える歴史については、私たちは多くを知っている。それらに名前が付けられ、また分類もされた。葉の形、その果実の質や花の色の理由についても知っている。なぜなら、地上のあらゆるものに形を与えている恒久の法則の有り様について少なからず学んできたからである。しかし、なぜ植物は存在しているのか――これについて私たちは知らない。この普遍的な緑となって現れようとする霊的なものとは一体何なのか? それは、繁殖しないものから由来しながら、永遠に繁殖するという謎である。あるいは、生命がないと思われている無生物もそれ自体生命であるのか――つまり、それはより沈黙した、より隠れた生命にすぎないのか?
 しかし、奇妙で動きの速い生命体が地球上に出現し、風の中や水の中に棲息している。これは自分を大地から分離する霊的な力を持っているが、最終的には、つねに大地に呼び戻され、自分たちがかつては捕食してきたものを今度は養うように運命づけられている。それは感じる、知る、はいずり回り、泳ぐ、走る、考える。そして、数え切れないくらいの形態がある。緑の緩やかな生命体は存在そのものを求めている。が、この生命体は存在しないことと永遠に戦うのである。その動きのメカニズムやその成長の法則について私たちは知っている。その構造の最も内奥で迷宮だったところも解明されている。その感覚の領域も位置づけられて、名称も付けられている。だが、その意味については、まだよく分かっていない。どこからそれが来たのか? あるいは、より単純に、それは何なのか? なぜそれは苦痛を知っているのか? なぜそれは苦痛によって進化しているのか?
 そして、この苦痛の生命体とは私たち人間のことである。相対的には、それは見るし、また、知る。絶対的には、自分たちを支えている緩やかな、冷たい緑の生命体のように、動物も無知であり、またはいずり回っている。しかし、それはより上位の存在をまた支えている――つまり、目には見えない生命体を限りなく活発にし、またより複雑に育てあげているのか? 霊的なものの中に包み込まれた霊的なものが存在するのか――無限の生命の中に生命が存在するのか? 他の宇宙に互いに浸透し合うような宇宙が存在するのか?
 今日では、少なくとも人間の知識の限界はしっかりと固定されている。これらの限界をはるかに超えてのみ、前述の問に対する答えは存在する。けれども、何が可能性のこれらの限界を決めているのだろうか? それは人間の性質そのものに他ならない。この性質は、私たちの後に続く未来の人々の中にも同じように限界付けられたままなのか? 彼らは、より高い感覚を発展させ、多様な能力を開拓し、また知覚をより確実にするということはないのだろうか? 科学はこの点で何を教えてくれるのだろうか?
 おそらく、クリフォードの深遠な言葉が示唆するように、私たち人類は造られたものではなく、自らを造っているのである。これこそが、科学の、もっとも意義深い教えである。では、何ゆえに人間たちは自らを造り出してきたのか? それは病苦と苦痛を免れるためである。私たちの種しゅは、苦痛の圧力の下でのみ形作られた。苦痛が存続する限り、自己変革の終わりのない大変な仕事も継続する。かつて、太古においては、生命の必要不可欠なものは物質的なものであった。今日においては、それらは物質的でもあり、また道徳的でもある。将来のあらゆる必要不可欠なもののうちで、「宇宙の謎」を解読しようとすることほど、無慈悲にして、かつ力強く、また素晴らしいものはないようだ。
 世界のもっとも偉大な思想家は――なぜ謎が解き明かされないかを語っているが――また解決したいという熱望は継続しなければならず、そして、人間の成長とともに大きくなるとも言っている(1)。
 確かに、この必然性をたんに認めること自体にも、希望の芽生えをその内に持っている。知りたいと希うことは、将来の苦痛のおそらく最高の形式であるが、現在は不可能なことを成し遂げようとする力――つまり、今は見えないものを知覚する能力――の自然な発展を人類の内に強いることにならないだろうか。今日の私たちは、かつて存在しようと思い憧れてきた、当の私たち自身に他ならない。とすれば、私たちの事業の継承者たちは、私たちが現在なりたいと望んだものに、彼ら自身もなり得るといえるのではなかろうか?
(1)ハーバート?スペンサー『第一原理(「融合」)』
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