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石仏 3_小泉八云_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网

时间: 2024-10-24    作者: destoon    进入日语论坛
核心提示:3 墓地の少しばかり向こうには、柵で囲われた小さな畑があり、農夫が神代かみよの昔ながらの鋤すきを牛に曳かせて黒い土を耕し
(单词翻译:双击或拖选)
 墓地の少しばかり向こうには、柵で囲われた小さな畑があり、農夫が神代かみよの昔ながらの鋤すきを牛に曳かせて黒い土を耕している。また、その傍らでは妻が、日本の建国の時よりもはるかに古そうな長柄の鍬を使って手助けをしている。これら三者は、労働は生命の糧なりという知識で無慈悲に奨励されているかのように、不思議とも思える熱心さで骨の折れる農作業を続けている。
 その農夫はといえば、私が、一八世紀に描かれた浮世絵の中で見たような男だった。
また、はるか昔の掛け軸の絵の中にもこのような姿の男を見たことがある。それとまさしく一緒ではないか! 他の数え切れないくらいの衣装は変化したが、農夫の藁わらの笠、蓑みのそれに草鞋わらじの履物は依然としてそのままである。彼自身は着ている物よりもはるかに古い感じで、かなり老けている。農夫が耕す大地は、実に彼を何百回も何千回も飲み込んできた。けれど、その都度、大地は新しくなった生命力を農夫に返して来たのである。この絶えざる更新に農夫は満足しているので、それ以上は求めない。
山はその形を変化させ、川も流れを変えているけれども、農夫は変化しない。しかし、変化しないままではあるが、農夫は変化させる人である。彼らのおびただしい汗水から鉄の船や鉄道が、それに石造りの建物が造られる。その手は大学を建てるために、また新しい文物を学ぶための支払いをする手である。また、それは電信や電気それにライフル銃のために、また、科学や商売の機械それに戦争の機械を購あがなうための支払いをする手である。農夫はすべてのものを与えてくれる人である。その代わりに、彼らは永遠に働き続ける権利が与えられている。それゆえ、農夫は人々の新しい生活を植え付けるために何世紀にも渡ってただひたすら耕し続けるのである。彼らは、世界の仕事がなし終わるまでずっと、このように黙々と耕し続けて労働しなければならないだろう――そう人類の滅亡のその時までずっと。
 では人間の終焉とは何か? それは病を得たものかあるいは健全なものか? はたまた私たちにとっては未解決の謎のままなのか?
 西欧の英知はつぎのように答えている。「人類の進化とは完全かつ至福へ向かう進歩である。進化の目的は均衡である。悪が一つずつ次第に滅びてゆけば、善が生き残ることになる。その時に至っては、知識はその最善にまで発展して、精神は素晴らしい開花の時を得て、ありとあらゆる争闘や心の苦しみ、悪や愚行もひとつ残らず終焉する。
人々はみな救済され、不滅となり、神のようになる。人びとは何世紀も生きながらえる。人生のあらゆる喜びは、詩人の儚はかない夢よりもまことしやかなものとなり、地上の楽園でみんなが共有するであろう。そこには、支配者も支配される者もいない。政府も法律も存在しない。あらゆる物事の秩序は愛によって解決されるであろう。」 で、それから?
「それから?」おお、「力」の継続や他の宇宙の法則のゆえに消滅が訪れよう。あらゆる統一体はつぎには分解に到らなければならない。これが科学の言うところだ。」 勝ち残ったものすべてが、今度は失わなければならない。耕されるべきものすべては、まったく耕されないままである。そして、今度は、征服されるべきものすべては、征服されざるを得ない。良いと思われたもののために受け入れたものすべてが、訳の分からない無目的のためにまた受け入れられなければならない。未知なるものから過去のおびただしい苦しみが生まれたように、将来のおびただしい苦痛が否応いやおうなく未知なるものの中に消えて行く定めである。そうすると、では一体、私たちの進化にはどんな価値があるといえるのだろうか? また、そのような人生の意味とは何なのか――それは闇の中の幻のような一瞬のきらめきか? あなた方のいう進化とは、絶対的な謎から普遍的な死へと向かう通過のプロセスに過ぎないのか? 藁わらの笠を被った農民が世俗的に最後の時である死に臨んで、自分が耕している土に帰ってゆくとき、膨大な年月に渡るこれまでの労苦のすべては一体何の役に立つのか?
 西洋の人たちはつぎのように答える。「いいや! そのような意味における普遍的な死などない。死は変化を意味するだけである。それゆえ、また別の普遍的な生命が現われるであろう。私たちに消滅を保証するものが、必ずしも再生を確実に保証する訳ではない。宇宙は星雲に解消されるが、世界の別の群れを形成するように再び凝結するであろう。だから、おそらくあなたの農夫はその忍耐強い牛とともに再び出現しうる。そして、紫やすみれ色の太陽に照らし出された土を耕すのである。」そうかもしれないが、その復活の後は?「では、別の進化があり、別の均衡が生まれて、別の滅亡が存在するのはなぜか? これが科学の教えである。これが不変の法則である。」 しかし、その復活された人生というが、それは新しいものなのか? それは限りなく古いものではないのか? というのは永遠の存在でなければならないと確実に言えるのは、永遠にこれまでもずっとそうであったというものに他ならないからである。終わりがないように、始まりもこれまでなかった。時間でさえ幻想に過ぎない。百万年も照らし続けている太陽の下では新しいものなど何も存在しない。死は死ではない。休息でもない。苦痛の終わりでもない。骨折り損のうちのもっともひどいものに過ぎない。そして、あなた方西洋は、この苦痛の無限の輪から抜ける出る道はないと言っている。あの草鞋を履はいた農夫がそうであるよりも、私たちをもっと賢明にしてくれてきただろうか? 農夫はこれらのことをみんな了解している。彼は、まだ幼い時分に寺子屋で読み書きを習ったお坊さんたちから、人は何度も生まれ変わるものだという輪廻転生りんねてんしょうや宇宙の無数の誕生や消滅、それに生命の統一性について一通りのことは学んでいる。あなた方西洋が数学的に発見したものは、東洋では、仏教が出現する以前よりも古くから知られている。どのようにして知ったと言えるのか? おそらく、宇宙の崩壊を生き延びた記憶があったのだろう。しかし、そうであったとしても、あなた方が予見したというものは、じつはとても古いものである。西洋のあなた方の方法だけが新しいのであって、それは宇宙の古い理論を確認しただけのものに過ぎないし、永遠の「謎」の複雑さを更にややこしくするだけに過ぎない。
 西欧はこれまでつぎのように答えてきた。「いや、そうではない! 私は世界を形成して、あるいは霧散させる永遠の行動のリズムを見分けてきた。また、感覚を持ったすべての生物を進化させ、また思想を発展させている「苦痛の法則」を予測してきたのである。それに、私は悲しみを減じる手段も発見してきたし、はっきりと示してきた。私は努力が必要なことと、人生の高次の義務を教えてきた。また、人生の義務について知るというのは、じつに人にとってもっとも大きな価値のある知識である。」 おそらく努力の必要性と人生の義務についての知識は、あなた方西洋人がそれを示してきたように、あなた方よりもはるかに古い知識である。おそらく、あの農夫はこの地上で五万年以上も前から、それを知っていた。神ですら忘れたサイクルの中で、かなり以前に滅んでしまった惑星においてもまたそれはそうであったろう。もしこれが西洋の英知の究極のものといえるなら、藁草履の農夫は、ブッダによって無知なる者――つまり「何度も何度も墓地を占めている」者たちに分類されてはいるが、これを知っているという知識においては西洋人と同等なのである。
 科学はつぎのように反論するだろう。「かの農夫では知ることができない。せいぜいのところ自分が信じているにすぎないか、もしくは信じていると思っているに過ぎない。彼を教えたもっとも賢明な彼かの僧侶ですら証明することはできまい。証明しているのは私だけである。私のみが絶対の証明をしてきたし、道徳的な革新についても証明してきた。ただ、それは破壊のための証明であると非難されてはいるが……。私は人間の知識の限界を定義している。しかし、私はまた最高位の疑念についても、その動かざる基礎を絶えず確立してきた。――それは人の希望の実体でもあるから健全なものである。――私は人間の思想や人間の行いのごく小さいものですら――悠久に通じる、目には見えない振動を通じて自分で登録しながら、永遠に記録していることを証明してきた。そして、私は古い信条の多くを空っぽの抜け殻にしてきたが、それに代わって永続する真理に依拠した新たな道徳の基礎を確立している。」 そうなのだ!――「西洋の信条」だ。抜け殻にされたのは東洋のもっと古い信条ではないのである。あなた方はまだそれを吟味すらもしてもいない。農夫が持っている信条の多くはあなたが私たちすべてのために証明してきたことだから、この農夫が証明できなくても構わないのではないか? そして、農夫はあなた方が到達していない別の信条も持っている。彼はまた、人の行動と思想とは人の生命よりも長く残ることを教えられている。農夫は、各個人の行動と思想とは、その個人の存在を超越するものであって、まだ生まれていない別の生命を形作るものだとも教えられている。さらに、彼は、もっとも秘めたる願いを、その測ることができない固有の可能性があるので、抑制することを教えられている。また、農夫は身にまとっている蓑と同じように単純に織られた思想と明白な言葉でこのことを教えられている。彼がその前提を証明できないとしても構わないではないか? 西洋のあなた方が農夫や世界のみんなのために、それらを証明してきたのである。農夫はただ来世についての理論を持っているに過ぎない。けれども、あなた方西洋は、それがたんなる夢に基づいたものではないという反論のしようがない証拠をもたらした。あなた方はこれまで、彼の純真な精神に蓄積されたいくつかの信念が真理であると懸命になって確定してきたのだから、つぎのように考えたとしてもまんざら的外れだとも言えまい。つまり、あなた方の手によってまだ検証されていない、日本の農夫が持っている他の信念もまた真理であることが、いずれ西洋のあなた方の将来の研究によって証明されることになるであろう、と。
「たとえば、地震は大きな一匹の魚が引き起こしているとかいう信念はどうか?」 あざ笑わないで欲しい! そんな事について私たち西洋人の考えも、ほんの二、三世代前には、似たり寄ったりで現実離れしたものであったのだ。いいや、そんなことではない! 私が言っているのは昔からの教えのことである。行為や思想はたんに人生に付随したものというばかりでなく、それを創造しているものでもあるということである。
仏典にはつぎのように書かれている。「諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る」(2)
 
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