高田さん
トリを焼く煙がもうもうとあがり、勢いよく通りに出てゆく。東京?吉祥寺の駅前で、井の頭公園に近い場所だ。この春に逝った歌手、高田渡さんの行きつけだった店の止まり木で、しばししのんだ。
烤鸡的烟雾冉冉升起,弥漫到街道上。这是东京吉祥寺车站前面,井之头公园附近的场所。笔者坐在今春去世的歌手、高田渡先生常小店的高脚凳上小憩。
「鉄砲や戦車や飛行機に/興味をもっている方は/いつでも自衛隊におこし下さい/手とり足とり教えます」。「自衛隊に入ろう」は1967年、高田さんが都立高の定時制に通う頃に作られた。このデビュー曲が放送禁止になった。
"面对大炮战车飞机/感兴趣的你们/请随时加入到自卫队来/我们将亲手教会你们"。《加入自卫队吧》一曲是高田就读于都立定时制高中时的谱写的。而这首处女作却遭到了禁播。
主義主張を正面からぶつける作風ではない。「あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄(やゆ)などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだった」と自著「バーボン?ストリート?ブルース」(山と渓谷社)に書いている。
这并非从正面质问政府主张的作风。高田先生在自传《波旁。街。布鲁士舞》(山和溪谷社)中写到"我喜欢咏唱一些无关紧要的歌曲,并在其中加入一些讽刺、批判和揶揄的香辣调料。"
何度聴いてもしんみりするのが「すかんぽ」だ。「土堤の上で すかんぽは/レールの間に 生きていた/急行ごとに気を付けをし/人の旅するのを眺めていた」。酒場や小劇場で自作詩の朗読を続けたドイツの詩人、ヨアヒム?リンゲルナッツの「哀れな草」に緩やかな曲を付けた。弱い草だが「目もあり 心もあり 耳もある」と、語るように歌う。
(高田先生的曲中有一首)听了几遍都令人为之伤感的曲子《酸模》。"土堤上 酸模 在轨道间 顽强的生活 它注视着疾驰而去的列车 凝视着人类的旅程"。高田为长期在酒馆和小剧场咏诵自己作品的德国诗人,尤阿希姆。林格儒纳的作品《哀愁的小草》谱写了这首舒缓的乐曲。
高田さんがドイツを訪ねるNHKのテレビ番組で、原詩に軽快な曲を付けて歌う現地の青年たちが出てきた。気を付けする草にはこっけい味があるから、明るく歌うのも分かるが、高田さんはその姿に、生きるものの愁いと根強さも見ていたのではないか。
在NHK录制的高田先生走访德国的电视节目中,也出现了为原诗谱写轻快曲子并咏唱歌曲的当地青年。由于关注小草带给人一种诙谐的感觉,因而也能体会其明快旋律的心情。但高桥对于小草的那种态度,不正体现了其对生命的哀愁和坚忍不拔的咏叹吗。
1月1日生まれで、存命なら明日が57歳の誕生日だった。その歌は、人々の心の中に流れ続けてゆくだろう。
高田先生于1月1日出生,倘若仍存活于世上,那么明天将是他的57岁生日。他所作的歌曲,将永远地在人们的心中流淌。