中国・日本の太陰太陽暦で季節を調節していくために設けられた、黄道上の24個の標準になる点を二十四節気とよぶ。太陰太陽暦では毎年の日数が同一ではなく、暦日と季節の関係が変動して、そのずれは、大きい場合1か月ほどにも達する。このずれをなくして季節を調整するために、1年の長さを冬至から始めて24等分し、各分点を太陽が通過するときの時候を表す名称をつけて、これを二十四節気と称した。1か月に2分点ずつを割り当て、先のものを節気、後のものを中気と名づけ、これに月名を冠して、二月節啓蟄(けいちつ)、二月中春分というように称する。これは平気法といわれるもので、節から節まで、中から中までの日数は30.44日であるから、1暦月より長いので中気を含まない月が生ずる。この月を閏(うるう)月とする。
ところが清(しん)朝の時憲(じけん)暦になって、黄道上を冬至点から始めて15度ずつの24分点を設け、太陽がこの点を通過するときを二十四節気とした。そうすると太陽が黄道上を15度ずつ進む日数は不等となるが、実際の時候を表すことになる。これを定気法という。閏月の置き方は平気法と同様であって、中気のない月を閏月とするが、冬至はかならず11月に、春分は2月に、夏至は5月に、秋分は8月に含まれるようにし、閏月はこの規定に反しないように挿入する。日本でも1844年(弘化1)から施行された天保(てんぽう)暦はこの定気法に従っている。