最近の若い人は諺の意味を大抵逆に解釈しているらしい。「他人に情けをかけるとその人を甘やかすことになるのでよくない」という意味にとっている。確かにあの日本語自体はどちらの解釈も可能であるため、知らなければそう思ってもしょうがないのだろう。
(中略)
「聖書」の中でも、「一切の見返りを期待しないで何かを与えると、その何倍にもなって返ってくる」とある。これは私自身、何度も経験している。しかし、人が何かをするとき、どんな理屈を付けても、どれほど無私を装っても、実際はすべて、自分のために行っている。何かを人にしてあげることで、自分自身の気分がよくなるからやっているだけである。これは両者の喜びが一致しているから、まあよいとしよう。しかし、いつもそうとは限らない。
問題は相手が喜ばなかったときである。「何かをしてあげたのに」、相手が喜ばないと、大抵の人は気分を悪くする。これは、相手に何かをしてあげたのは端から見返りを求めてやっているからである。これでは何かをしてあげても、決して期待したようにはならないだろう。世の中にはこのタイプの人がごまんといる。ひどいときは勝手に何かを押し付けておいて、見返りを求めてきたりする。悪徳商法のダイレクトメールのような人間が実際にはいくらでもいる。
(中略)
人は自分が現在していること、その合していることが「業(ゴウ)」となり、将来が決まる。現在の自分も、過去の自分の業の上に存在している。現在の自分は突然今の自分になったのではない。とにかくやっかいと言えばやっかいなものかもしれないが、人の今も、将来も業の連続の上に存在している。
人はいつだって自分のしたいことしかしないようになっている。そういう生き物なのだ。自分の望むように生きてきた結果が、今の自分を作っている。嫌ならいつだって変えることはできたのだ。人から見て、「不幸」に見えようが、当人はそれが好きでやっている場合がいくらでもある。(中略)
人に何かを「してあげられるありがたさ」を本心から感じるとき、人は一切の見返りを期待しなくなる。
1、筆者は、結局「情けは人の為ならず」の意味をどう解釈しているか。
①他人に情けをかけると、相手はありがたく受け取るものだ。
②他人に情けをかけると、人に頼ろうとするだけで、相手は益々だめになる。
③一切の見返りを求めずに、人に何かを与えれば、その報いは必ず自分のほうに戻ってくるものだ。
④一切の見返りを求めずに、人に何かを与えても、その報いは戻ってこないものだ。
2、「大抵の人は気分を悪くする」とあるが、その原因は何か、筆者の考えに最も近いものを一つ選びなさい。
①相手に何かを与えると、相手も必ず何かをしてくれるから。
②相手に何かを与えたら、相手も何かをしてくれるだろうと思うから。
③相手を喜ばせるために何かをしてあげたのに、ちっとも喜んでくれないから。
④善意で何かをしてあげたのに、また他の何かを要求するから。
3、筆者が考える「業」とは何か。
①現在の自分を変えようといくら努力しても、結局将来は何も変わらない。
②過去の自分と現在の自分の存在は業の連続性とはまったく関係のないことだ。
③今の自分の姿は、自分がやりたいことをやりながら生きてきた結果の産物である。
④今の自分の姿は、自分の意志では帰ることのできなかった社会の産物である。
4、筆者の考えとして、本文の内容と最も近いものはどれか。
①人に何かを与えるときは、相手に何か見返りを求めるべきではない。
②人に何かを与えるときは、相手が喜ぶかどうかを考えるべきだ。
③人がどんなに不幸に見えようが、同情してはいけない。
④人が不幸に見えたら、嫌でも相手が好きなことをしてあげるべきだ。