( ① )日本語では、父や母のような親族語はその( ア )性を失って、( イ )的な語として機能していると考えることができる。例えば、家の中で母親が子供に向かって、「あなたのパパはどこ?」とか「お前のおとうちゃん、遅いわね」などとは決して言わないし、言うことはできないのである。一軒の家には、父、母、祖父、祖母などと呼ばれる地位があるが、その地位を占める者の名が「おかあさん」と呼んでも不思議ではないし、一家の祖母に当たる人が、自分の息子を「おとうさん」「パパ」と呼ぶこともあり得る。このような場合の親族語は、もはや「私の」とか「子供の」という原点を失った、「うちのおとうさん」「うちのおかあさん」という意味なのである。
家庭外で、相手を先生とか、課長と呼び、名前や人称代名詞をなるべく使わないのも、その場に応じたヒエラルヒーを設定し、その中での位置付けをすることで相手を把握するものと言えよう。つまり、相手を一個の個人とは見えないで、相手を課程をはじめ、職場、社交、その他いくつかヒエラルヒーを背負った存在と考え、ヒエラルヒーの中の相手と自分の上下関係や相関関係から、言語的に、どのように自己を把握するかが決定されるのだ。そしてこの決定は、一般的な言葉遣い、適当な敬語の選択、そして全身的な態度にまで影響を及ぼして行くのである。
日本人の言語によるこのような自己定位は、いま述べたような相手を規定し終えた後ではじめて可能になる。だから、相手の素性が知れていれば楽なものである。
例えば小学校の先生をしている①人の男を考えてみよう。彼は自分の子供に向かうときは、自分のことを「( a )」と呼ぶが、誰か子供の友達が遊びに来れば、 「( b )」である。妻に対しては自分のことを「( c )」と言うかもしれないし、学校で校長と話すときは「( d )」とかしこまる。
これに対し、相手の素性が知れない時には非常に困ってしまう。見知らぬ他人、社会的に位置付ける手がかりのつかめぬ相手に対し、我々日本人が気安く言葉を交わせない原因の一つは、ここにあると考えられる。しかも現代では、そのような相手と、否応なしに、何らかの人間関係を結ばなければ、生活していけないような状況が日増しに多くなる一方である。一部のサラリーマン階級から始まったと言われる「おたく」を、「あなた」でも「おまえ」「きみ」でもない、( ③ )に対する呼び掛け語として使う習慣なども、ヒエラルヒーに無関係な対称語を求める無意識の努力の現れではないかと思われる。よく日本人には真の意味の対話がないと言われるが、「話し手」と「聞き手」という抽象的な機能のみを表示する適切な用語を積極的に求める努力が、今ほど必要な時はないと思うのである。
(鈴木孝夫「ことばと社会」より)
1、ア、イに入る語の組み合わせとして、最も適当なのはどれか。
①ア:絶対 イ:相対
②ア:相対 イ:絶対
③ア:一般 イ:相対
④ア:相対 イ:一般
2、( ① )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①ただし
②そこで
③ところが
④かといって
3、「家の中で母親が子供に向かって、…言うことはできないのである。」とあるが、それはなぜか。
①日本語の親族語は子供の立場から相手をとらえた言い方はしないから。
②「あなたのパパ」といった方は複雑であり、「誰の」は言わなくてもわかるから。
③日本語の親族語は自分の立場から相手をとらえた自己中心語だから。
④日本語の親族語は家庭内の地位を表す語で、「誰の」と言う必要はないから。
4、a~dに入る適当な語の組み合わせはどれか。
①a:パパ b:おじさん c:おれ d:わたくし
②a:お父さん b:先生 c:僕 d:わたくし
③a:お父さん b:おじさん c:おれ d:わたし
④a:父 b:先生 c:僕 d:わたし
5、③に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①自分より目上だと考えられる相手
②自分と対等であると考えられる相手
③名前を知らない取引先の相手
④素性が分からない相手
6、「よく日本人には真の意味の対話がないと言われる」とあるが、それはなぜか。
①日本人は、相手を先生とか課長とか呼び、相手の名前を呼ばないで対話する習慣があるので、対話が他人行儀になってしまうから。
②日本人は、いつも相手がどう思うか気にした話し方をして、自分の考えや気持ちをはっきり伝えようとしないから。
③日本人は、相手を一個の個人とはみないで、常にヒエラルヒーの中の相手と自分の上下関係や相関関係にたった対話をするから。
④社会的に位置づける手がかりのつかめぬ見知らぬ相手と、日本人は対話することができないから。