新潟県長岡市の中学を卒業して東京の高等学校へ入った。今から三十年も昔のことである。東京に家を建てる予定になっていて、当初はしばらく下宿生活を続けた。知人も友人もなく、学校から帰るとたった一人で下宿屋の畳の上に寝転がっていた。
その家は京王《けいおう》線の初台《はつだい》にあって、新宿までは一駅の距離だ。退屈しのぎによく映画を見た。
といっても小遣いがふんだんにあるわけではない。当時新宿には帝都座、地球座、光座、武蔵野館などがあったが、一番よく足を運んだのは帝都名画座という、格安の劇場だった。
一時代前の映画ファンなら、きっとこの映画館の名前をおぼえていらっしゃるにちがいない。階段をたくさん昇ったあとで、ようやくたどり着く狭い劇場で、いつも古い名画を選んで上映していた。
料金は金三十円也。初台から新宿までの電車賃が往復で十円。安値で名高い渋谷食堂(新宿にも渋谷食堂があったのだ)の最高級ランチが六十円。百円を持って家を出ると、映画を楽しみ、食事を楽しみ、このランチにはコーヒーもついていて、なんとなく大人の楽しみを享受したような気分になる。当時の私にとって最高の贅沢《ぜいたく》であった。
ある日、この名画座で�カルメン�を見た。監督はだれだったか記憶にない。主演はドン・ホセにジャン・マレイ、そしてカルメンにヴィヴィアンヌ・ロマンスが扮《ふん》していた。
ヴィヴィアンヌ・ロマンスを見たのは、この時が初めてだったろう。とてつもなく美しい女だと思った。
その頃《ころ》フランス映画に現われる美女と言えば、たとえばダニエル・ダリュー、ミシェル・モルガンなどであって、ヴィヴィアンヌ・ロマンスも第一線のスターであったことは間違いないのだが、ダリューやモルガンの名を記憶している人が多いわりには、ロマンスを知る人は少ない。どうしたわけなのだろうか?
映画には当たり役というものがあるものだが、ジャン・マレイのホセとヴィヴィアンヌ・ロマンスのカルメンは、やはりそういった当たり役の一つだったろう。マレイは実直な、どこか田舎者風な、しかもどちらかと言えば大根役者のほうだから、ホセのような一途な役柄がよく似合うのである。
一方、ヴィヴィアンヌ・ロマンスは、いかにも尻軽《しりがる》な、パリ娘のような雰囲気をふんだんに身につけている。カルメンにはうってつけの女優のように思う。
もちろん高校一年生の私が、そこまで深く考えて映画を鑑賞していたわけではあるまい。
ただ、ただ、眼の大きい、男を惑わさずにはおかない、不思議な美貌《びぼう》をスクリーンの中に認めて、荒い息をついていたにちがいあるまい。感激のあまり三日連続で帝都名画座の階段を昇った。二度目のときには、渋谷食堂を省略して、その代金でブロマイドを買った。紀伊国屋書店の、古い木造の建物に入るところの角にブロマイドを売る店があった。三度目のときには、懐中に五十円しかなく、映画と往復の電車賃だけで我慢しなければいけなかった。
本箱から本を抜き出し、机の上に二十冊ほど積む。それを横から眺めて、比較的不必要な本を引き抜き、それを古本屋へ持って行く。もとより高校生の蔵書だから高価なものはない。それでも五十円程度のお金にはなった。
こうして捻出《ねんしゆつ》したお金を握って新宿の帝都名画座へ通った。目的はヴィヴィアンヌ・ロマンスの登場する映画を見るためである。
ブロマイドの中のヴィヴィアンヌは、あまり私の好みではなかった。その写真は、子ども心にも端整すぎて、あの溢《あふ》れるような魅力に乏しいように思えた。静止している表情より動いている面差しのほうが、はるかにチャーミングな女優だったのかもしれない。
デュヴィヴィエが監督した�我等の仲間�も忘れられない映画の一つだった。
パリの下町に住む親しい仲間たちが宝くじの一等を当て、それを資金にして郊外にレストランを建てる。しかし、仲間たちはそれぞれ事情があって、一人減り二人減り、事故死するものもあって、結局二人だけになってしまう。残った一人に悪い女がついていて、これが二人の友情を駄目にしてしまう。
わが親愛なるヴィヴィアンヌが演ずるのは、もちろんこの悪女役で、これもカルメン同様、彼女にはもってこいの役柄だ。スクリーンの中の彼女は、ヌードモデルをやっていて、アパートの壁いっぱいにそんな写真が張ってある。
「あの一枚がほしいな」
そんな心で少年はスクリーンを眺めていたのだと思う。
今にして思えば、まだ年若い私が、どうしてあれほど熟《う》れた感触の女に入れこんでしまったのか、不思議な気がしないでもない。
当時好きだった女優は、他にはジューン・アリスン、ジェニファー・ジョーンズなど、むしろ清純派のスターだったのだから。
しかし、少年期であればこそかえって淫蕩《いんとう》なものに強く引かれるところがあったのかもしれない。実際の話、ヴィヴィアンヌの映画を見るときは、まだ知らない大人の世界を垣間見るような、なにか�いけない�ことをしているような、そんな奇妙な興奮が胸をふさぎ、息苦しかった。考えてみれば、ヴィヴィアンヌ・ロマンスの淫《みだ》らさは、少年にも理解できるたぐいの典型的な淫らさであって、美しさと共存する淫蕩さの存在をすこぶる明快に、平易に、私に感知させてくれたのかもしれない。
もう少し遅れて私は�花咲ける騎士道�のジーナ・ロロブリジーダにも感激した。フランス文学を学んだ理由も、この二人の女性の影響を少し受けている。
先日テレビの名画劇場で久方ぶりに�我等の仲間�を見た。
ヴィヴィアンヌのコケットリイは少し明快過ぎて、近頃はもう少し複雑な淫蕩さに引かれるのではあるまいか、と思った。