「ロンドンへ向かう高架線からは、こうやって町並みの眺望を楽しめるんだね」
私は冗談に決まっていると思った。車窓の景色はみすぼらしいことこのうえなかったか
らだ。すると、ホームズがすぐに説明を始めた。
「ほら、灰色のスレート屋根が並んでいる中に、ところどころ大きな建物がぽつんと顔を
出しているだろう? 鉛色の海に浮かぶレンガの島々のようだ」
「ただの公立小学校だよ、あれは」
「灯台だよ、きみ! 未来を照らす信号灯さ! いや、何百という輝ける小さな豆がぎっ
しり詰まった莢さやと呼ぶべきか。やがて莢がはじけると、そこからすばらしい英知が飛
びだし、我が国をよりよい未来へと導いてくれるんだ。ところで、フェルプスは酒は飲ま
ないんだろうか?」
「飲まないだろう」
「僕もそう思うが、あらゆる可能性を考慮に入れないといけないからね。今、あの哀れな
青年は水中深く沈んでしまっている。僕らが彼を岸へ引きあげてやれるかどうかが運命の
分かれ目だな。アニー・ハリスンについて、どう思う?」
「なかなか気が強そうだね」
「同感だ。だが僕の目に狂いがなければ、善良な娘だよ。彼女とジョゼフは二人きりの兄
きよう妹だいで、ノーサンバランドかどこかの鉄工所経営者の家庭に生まれた。昨年の
冬、フェルプスは旅行中に彼女と出会って婚約した。そのあと両親に紹介するため婚約者
を家に招き、兄も付き添い役としてウォーキングへやって来た。そこへ今回の不幸が起こ
り、ハリスン嬢は屋敷にとどまって恋人を看護することになった。兄のほうも居心地がい
いものだから、一緒に居候を決めこんだ。と、小手調べにここまで探りだしたが、今日も
一日がかりで調査を進めないといけない」
「診療のほうは──」私は言いかけた。
「ああ、そうか。本業があるから事件どころじゃなかったね。わかったよ、だったら──」
ホームズはへそを曲げた。
「いや、診療のほうは一日か二日なら、どうにでもなると言おうとしたんだ。ちょうど一
年で一番暇な時期だから」
「それはちょうどいい!」たちまちホームズの機嫌が直った。「では、力を合わせて調査
にあたろう。手始めにフォーブズ刑事に会ったほうがいいな。彼から必要な細かい情報を
入手できれば、事件にどの角度から切りこんでいけばいいか判断できる」
「もう手がかりをつかんだようなことを言わなかったかい?」
「つかんだよ、いくつか。だが、その信しん憑ぴよう性せいを確かめるにはもう少し調べ
てみないとね。解決が最も難しい事件とは、無目的な犯罪なんだ。しかし、今度の犯罪は
無目的なんかじゃない。この事件で利益を得るのは誰か? フランス大使に、ロシア大
使。両者のどちらかに文書を売りつけようとたくらむ悪党。さらにはホールドハースト卿
もしかりだ」
「ホールドハースト卿だって!」
「そうさ。場合によっては、ああいう重要文書が突発的に消えてくれたほうが政治家に
とって都合がいい、ということもありうるからね」
「ホールドハースト卿ほどの立派な経歴の政治家が、まさかそんなことは」
「可能性がある以上、無視するわけにはいかないよ。今日、大臣閣下との面会がかなえ
ば、ご本人からなにか聞けるかもしれない。ところで、別の方面でも調査をすでに進めて
いるんだ」
「すでに?」
「そうだよ。ウォーキング駅でロンドンの夕刊紙すべてに電報を打っておいた。各紙にこ
の広告が掲載されることになっている」
ホームズは手帳から破り取った紙切れを私に手渡した。鉛筆でこう書いてあった。
謝礼十ポンド──五月二十三日の夜十時十五分前、チャールズ街の外務省前、もしくはそ
の付近で客を降ろした辻つじ馬車の番号について情報を寄せられたし。連絡先はベイカー
街二二一番地B
「泥棒は役所に馬車で乗りつけたと考えるわけだね?」
「もしそうじゃなかったとしても、べつに困らないがね。しかし、フェルプス氏の言うと
おり部屋にも廊下にも隠れる場所がなかったとすれば、犯人は外部から侵入したにちがい
ない。雨の晩だったから、徒歩で来ればびしょ濡ぬれになっていたはずだが、事件直後に
調べたにもかかわらず、リノリウムの床には足跡がまったく残っていなかった。というこ
とは、辻馬車を利用したと考えるのが妥当だろう。ほぼ確実と言ってもいい」
「考えてみれば、そうだね」
「これもさっき僕が言った手がかりのひとつだ。ここからなにかわかるかもしれない。ほ
かには、当然ながら呼び鈴の問題がある。ここが事件の一番不可解な特徴だね。呼び鈴は
なぜ鳴らされたのか? 泥棒がからかうつもりで鳴らしたのか? それとも泥棒と一緒に
いた者が犯行をやめさせようとして鳴らしたのか? うっかり鳴らしてしまっただけ
か? あるいは──?」ホームズはそこで沈黙し、再び考え事にふけり始めた。私は彼の気
分については知り尽くしているので、なにか新しい可能性に思いあたったんだな、と察し
た。
終着駅に着いたのは午後三時二十分だった。駅構内の食堂であわただしく昼食を済ませ
ると、その足でスコットランド・ヤードへ向かった。ホームズがあらかじめ電報で知らせ
ておいたので、フォーブズ刑事本人が私たちを出迎えた。狐を思わせる風ふう貌ぼうの小
柄な男で、鋭い顔つきに愛あい敬きようはかけらもない。態度もはなはだしく冷淡で、こ
ちらが用件を告げると、ますます無愛想になった。
「あなたのやり口については前々から聞いていましたよ、ホームズさん」フォーブズは辛
しん辣らつな調子だった。「警察が提供する情報を利用するだけ利用した挙句、勝手に事
件を片付けて、警察の面目を丸つぶれにしてくれるそうじゃありませんか」
「いいや、事実はまったく逆だよ」ホームズは答えた。「僕が最近手がけた五十三の事件
のうち、僕の名前が出たのはたった四件で、残りの四十九件はすべて警察の手柄になって
いるんだがね。まあ、きみはまだ若くて、経験も浅いようだから、本当の事情を知らなく
ても責めるつもりはないよ。ただし今度の事件を解決したければ、そんなふうに突っかか
らないで、素直に僕と手を組むことだね」
「ではどうか、捜査のヒントをひとつかふたつ授けていただけませんか?」フォーブズ刑
事の態度が一変した。「今のところ、五里霧中の状態でして」
「これまでの捜査経過は?」
「管理人のタンギーに尾行をつけてあります。近衛連隊を除隊する際には申し分のない人
物証明書をもらっていますし、不利な材料はひとつも出てきません。しかし女房のほうは
食わせ者のようですね。事件に関してなにか隠しているのではないかとにらんでいます」
「尾行をつけてあるのかい?」
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