廊下の自動販売機コーナーに佐山を待たせ、整理部への指示を幾つか出してから大部屋を出た。
佐山はソファの隅で紙コップのコーラを手にしていた。百円ぽっちのものでも悠木からは奢《おご》りは受けない。そう言っているように感じられた。
悠木は一人分のスペースを空けて腰を下ろした。
「神沢は今日出てきたか」
「御巣鷹に登ってます」
「またか」
「毎日登ってます。日課です。いずれいい記事を書くと思います」
知らなかった。
「川島はどうした?」
「話って何ですか」
「川島はクラブに出てるのか」
「遺品のほうを当たらせてます──早いとこ、話の中身を教えて下さい。クラブの森脇が心配なんで」
悠木は頷き、若干膝を詰めた。辺りを窺い、佐山に顔を戻した。
「前橋支局の玉置のことだ」
「玉置がどうかしましたか」
「どんな記者だ?」
佐山は答えず、コーラの紙コップを口元で傾けた。デスクに現場は売らない。顔にはそう書いてある。裏を返せば、玉置は取り立てて褒めるべき部分のない記者だということだ。
「奴がネタを引いてきた」
「何のネタです?」
「事故原因だ」
佐山の眉がピクッと動いた。
「圧力隔壁というのを知ってるか」
「機体の後部にあるお椀型の壁ですね。機内の気圧を一定に保つための」
「詳しいな」
「県警と同じです。なぜ飛行機は空を飛ぶのか、のところからやってます」
「その隔壁が与圧に耐えかねて破れ、垂直尾翼が吹き飛ばされた──玉置はそう言ってきている」
「ネタ元は?」
「事故調の調査官だ」
佐山の瞳孔が開くのがわかった。
「ただし立ち聞きだ。しかも、玉置が耳にしたのは隔壁の単語だけだ。それが破壊されたとか、尾翼を飛ばしたとかいうのは、奴の推論だ」
小さな間を挟んで佐山が口を開いた。
「玉置は工学部あがりでしたね?」
「そうだ。だが、航空工学をやってたわけじゃあない」
佐山は考え込む顔になった。
その横顔を覗き込んだ。
「ガセネタかもしれん」
「いや……」
佐山は顔を上げて言った。
「ネタは当たっている。そう踏んで詰めるしかないでしょう」
その返答は悠木を安堵させた。
「ウラ取りを頼む。現地に飛んで調査官を当たってくれ」
「俺がですか」
佐山は初めて悠木の顔を見た。
「玉置にやらせればいいでしょう。奴のネタなんだから」
若さが出た。佐山の声には悔しさが滲んでいた。
悠木はさらに膝を詰めた。
「玉置にウラが取れると思うか」
佐山は黙り込んだ。
「ネタの大きさを考えろ。俺はこいつを確実にモノにしたい」
「………」
「お前がやれ。北関のサツキャップはお前なんだからな」
佐山は微かに頷いた。世界的なスクープに自分も関わりたい。事件記者としての、至極当たり前の欲がそうさせる。
悠木は膝を打った。
「よし、さっそく飛んでくれ。明るいうちに着いて、調査官の宿を確かめておいたほうがいい」
「玉置は今どこに?」
「探してる。取り敢えず役場に行け。奴がつかまり次第、そう伝えておく」
「誰を詰めます?」
言った佐山の目が鋭さを増した。
「ネタがネタだ。頭にぶつかれ。首席調査官だ」
「藤浪鼎《ふじなみかなえ》」
「そいつだ。時間は遅くともいい。宿のトイレか脱衣場で締め上げろ」
二人は目を合わせた。端から見れば、睨み合ってると映ったかもしれない。
佐山が生唾を呑み下した。
「わかりました。やります。ただし、こいつはあくまで玉置の引きネタです。俺は黒子《くろこ》でいい。その点、くれぐれも」
悠木は久方ぶりに爽快な台詞を聞いた気がした。
「無論だ。玉置は社長賞をぶら下げて三日は飲み歩く」
佐山は白い歯を覗かせ、だが、すぐに口元を引き締めて立ち上がった。
「行きます」
「頼んだぞ」
仕事が二人の距離を縮めた。ただの仕事ではないからだ。
悠木は大部屋に向かって歩き出した。
鼓動が速まっているのがわかった。世界的スクープを北関が発信する。現実味を帯びたミッションが、たった今スタートを切ったのだ。
ドアのところで岸と出くわした。玉置から電話が入ったという。
悠木は廊下を振り向いた。佐山の姿は既になかった。舌打ちをしてデスクへの足を速めた。もう三分電話が早ければ、この場ですべての段取りがついたろうに。
机に寝ころんでいた受話器を取り上げた。
「悠木だ」
〈ああ、やっとつかまった〉
玉置は嬉しげな声を出した。
「何度も探してくれたみたいだな。動きがあったのか」
〈ええ。隔壁で決まりです! いま原稿を書き始めようと──〉
「待て」
玉置の語尾に声を被せた。
「どこから掛けてる?」
〈えっ……?〉
「電話の場所だ」
〈釣り宿の公衆です〉
「小さな声で話せ──いいな」
脅しの声になっていた。
〈わ、わかりました……〉
「で? なぜ隔壁で決まりなんだ?」
悠木も送話口を手で囲っていた。
〈ええ、それが、事故調の唐沢という人が、僕の大学のゼミの教授と親しくて、だから聞いてもらったんです。そしたら、おそらく隔壁だろうって、そう答えたらしいんです〉
おそらく。だろう。らしい──。
立ち聞きの次は又聞きだった。それを鵜呑みにして原稿を書き始めたというのか。
「予定稿だな?」
〈ヨテイ……? 何です?〉
悠木は荒い息を吐いた。
予定稿だと言うのならわかる。深夜にウラ取りを終えてから原稿を書き始めたのでは締切に間に合わない。だから、あらかじめ書き上げた原稿を本社に送っておいて、それからウラ取りに走る──。
「わかった。原稿を早く書き上げろ。ファックスでいい。送る前に一本電話をくれ」
〈わかりました〉
玉置の声はまた弾んだ。
悠木にしても、別の頭でネタの信憑性が格段に高まったことは理解していた。だから昂《たかぶ》りと憤りとが胸の中でごちゃ混ぜになっていた。
「それとだ」
悠木は噛み砕く思いで言った。
「ネタが確かだとしても、所詮は又聞き情報だ。ウラ取りが必要になる。わかるな?」
〈あ、もちろんです。それもちゃんとやりますから〉
「サツの佐山をそっちに向かわせた」
〈ご心配なく。一人でやれます〉
悠木は構わず続けた。
「佐山と役場で落ち合え。お前の持っているネタと知識を洗いざらい話してやってくれ」
小さな悲鳴のような音を受話器が拾った。
〈どうしてです? 僕がやりますよ〉
非難めいた口調に変わっていた。
〈だって、佐山さん、飛行機のことは何も知らないでしょう? 専門的なことになったら、調査官の話についていけないでしょうが〉
調査官と事故原因について議論でもするつもりのようだった。
夜回り経験のない玉置に説明するのは難しかった。
仕事は数秒でカタがつく。調査官にぶつける質問は一つだ。「事故原因は圧力隔壁の破裂か?」。まともに答える公務員などいない。だから、イエスかノーか、その感触を瞬時に掴み取るのがウラ取りの技ということになる。全県の事件を背負っている佐山は警察官相手に一年三百六十五日、その仕事をやっている。
「佐山の仕事なんだ」
玉置の声は悄気返《しよげかえ》った。
〈……わかりました。じゃあ、佐山さんと一緒に行きます〉
「単独でやらす。お前はサポートに回れ。佐山の動きを逐一、本社に連絡しろ」
人が秘密を漏らす時は、相手が一人の時と決まっている。
〈納得できません〉
一転、玉置は食って掛かってきた。
〈そうでしょ? 僕が聞いてきたネタなんですよ。なんで佐山さんにあげなくちゃならないんですか〉
さっきの佐山の台詞を聞かせてやりたかった。いや、ここまで玉置が「自ネタ」に執着するとは思ってもみなかった。ひょっとすると、サツ廻りに置いて叩けば大化けするかもしれない。
「餅は餅屋だ。佐山に任せろ」
〈でも……〉
「上には、お前の手柄だと売り込む」
〈………〉
「聞いてるのか」
〈……はい〉
「五時前には佐山が着く。このネタが生きるか死ぬかはお前のサポート次第だ。頼んだぞ」
最後は歯の浮くような台詞で丸め込んだ。
岸と田沢は局長室に向かって歩き出していた。八月十六日組み十七日付の紙面会議が始まる。北関にとって歴史に名を刻む紙面になるかもしれなかった。
悠木は大股で二人の背中を追った。寒い。一瞬そう感じたが、武者震いに違いないと思って気にも掛けなかった。