道に迷った。
暮坂の自宅は前橋市|六供町《ろつくまち》の住宅街だ。随分と前のことになるが、一度、書類を届けに訪ねたこともあった。蔵のある家の二軒先。そんな記憶を頼りに来てみたが、一帯は大規模な区画整理が行われていて、町並みも風景も一変していた。
悠木は徐行運転で団地内を三周ほどしてみたが、蔵のある家はおろか、大掴みな家の場所すら思い出せなかった。
ベルトでポケベルが鳴っている。もう六時半だ。整理部のほうから日航関連の原稿が出てこないと文句が出始めているに違いなかった。暮坂の家を探すにしても、社に電話を入れて住所を調べさせたほうが早い。悠木の目は、先ほどから電話ボックスを探していた。
住宅街のほぼ中ほどに広い児童公園があって、その公園に張りめぐらされたフェンスの外側に、小さな雨除けだけがついた公衆電話を見つけた。車を少し手前にとめ、ポケットに小銭を探りながら電話に駆け寄った。
自分のデスクの直通に掛けると、岸が出た。
〈整理部が騒いでるぜ〉
「できるだけ早く戻る。それより、社員名簿で暮坂の住所と電話番号を見てくれ」
それらしい間の後、岸が小声で読み上げた。ポケベルの応答はどうしたかと聞くと、佐山からは県警の記者室にいると連絡があったが、神沢からは何もないと岸は答えた。
二人は一緒にいるのだろう。悠木はそう思いつつ車に足を向けた。メモ書きした所番地には「三丁目」とある。ここから少し南の方角に違いない。歩くか。それとも車で行ってみてから人に尋ねるか。迷いを覚えて、ふと辺りを見渡した。
白いマスクに視線がとまった。
十五メートルほど先、児童公園の入口付近だった。白いマスクをした男が道端にしゃがみ込んでいた。大きなマスクだ。顔の下半分をすっかり覆い尽くしている。
暮坂だった。
悠木は咄嗟に車の陰に身を寄せた。そのまま息を潜めて様子を窺った。最初は、暮坂がなぜしゃがみ込んでいるのかわからなかった。
ほどなくわかった。
暮坂の体の陰に犬がいた。
老犬だった。
あっ、と思った。
生きていたのだ、まだ。
白河が部下に配った犬……。連合赤軍事件のすぐ後だった。ならば、もう十三歳。いや、実際に生まれたのはもう少し早かったのかもしれない。そう思わせるほどに犬は老いていた。
柴犬ほどの大きさだ。体の毛の半分ほどが、毟《むし》り取られでもしたかのようにまだらに抜けている。排便をしたいのだろう、懸命にそのポーズを取ろうとするが、足がわなないてよろける。
暮坂が手を差し伸べている。片手で痩せ細った胴を支え、もう片方の手で排便を促すように背中を摩《さす》っている。犬の顔を見つめている。穏やかな眼差しだった。
悠木はそっと車のドアを開け、車内に体を滑り込ませた。ルームミラーの角度を調節する。リアウィンドウ越しに暮坂の姿が映った。スコップで糞をすくい、ビニール袋に入れた。腰を上げ、歩き出した。犬も続く。ゆっくりだ。よろよろと歩く犬の足に合わせて……。
悠木は車を出した。
すぐ先の角を曲がり、大通りへ向かった。
嫌悪と憐憫《れんびん》がごちゃ混ぜになって胸にあった。
暮坂は「記者ヅラ」をしたかったのだ。
広告が欲しくて、その話材を拾うために御巣鷹山に登ったのではなかった。スポンサーに、自分はただの広告マンではない、記者の仕事もやっているのだと言いたかった。世界最大の事故現場を踏んできたと話し、写真や機体の破片を見せ、ほう、と相手を感心させたかった。ただそれだけのために暮坂は御巣鷹山に登ったのだ。程度の差こそあれ、編集を離れた元記者が陥り易い「記者病」だ。
記者ヅラをして本物の記者に殴られた。
暮坂は誰にも言えない。今頃、歯が折れたもっともらしい理由を考えている。
悠木は長い息を吐いた。
邪心を、御巣鷹山は許さないということなのかもしれなかった。
己の心中を見つめた。
前方の信号が赤に変わった。
長い赤だった。
頭は仕事の段取りを考え始めていた。どれほど居心地が悪かろうと、日航全権デスクとして、あの大部屋に齧りついていなければならないのだと悠木は思った。