昼飯は地下食堂で一人で済ませ、三階の編集局に上がった。
大部屋はまだ人影も疎らだった。整理部のシマで「おはようス」と吉井が雑に頭を下げた。眠たげな顔だ。「隔壁」のスクープを狙った晩の、緊張しきった表情を思い出し、悠木は視界がぼやけるのを感じた。遥か昔のこと。そんな気がしたのだ。
デスクの上には原稿の山が三つあった。もはや見慣れた光景と言うべきものだった。真ん中の山の一番上に、とりわけ分厚い、今日組みのトップ候補用原稿が置かれていた。農大二高野球部員の父親の遺体が未明に確認された。早朝、県警本部の記者室に詰めている佐山から自宅に連絡があった。関連取材は手配済みだ。
悠木は椅子に腰を下ろして受話器を取り上げた。出版局次長席の内線番号をプッシュする。
すぐに貝塚が出た。
「悠木です。先ほどは迷惑を掛けました」
〈いや、役に立てなくて悪かったね。試しにそっちの次長の追村さんからプッシュさせてごらん。昔、茂呂局長の奥さんを紹介したのが彼だから〉
礼を言って受話器を置くと、その横にコーヒーカップが置かれ、ニッコリ笑った依田千鶴子が悠木の顔を覗き込んだ。
「昨日は尖ってしまってすみませんでした」
「劇的に顔が違うな。今日はこっちか」
「三時から向こうです」
「どっちがいい?」
「そんなのまだわかりません」
「お茶汲みと同じだ。原稿なんてすぐにうまくなる」
「だといいんですけど」
千鶴子は髪を振りながら編集庶務のシマに足を向けた。どことなく元気のないその後ろ姿を見送り、悠木はデスクに顔を戻してまた受話器を上げた。内線で広告企画に掛ける。
念のため名乗らないつもりでいたが、運良く目当ての宮田が電話を取った。
「悠木だ」
〈あ、昨日はどうも〉
「小声で聞かせてくれ。暮坂部長はどうしてる?」
〈今日も休みを取ってます。予定外なんですが〉
「理由は?」
内心、恐れを抱いて尋ねた。御巣鷹山で神沢に殴りつけられた。その噂が営業フロアに流れてはいないか。
〈下山途中に足を滑らせて何メートルか落ちたらしいんですよ。慣れない山登りだったですからね〉
「そうか。わかった」
安堵の息とともに悠木は言った。
電話を切ろうとして、慌てて口元に送話口を戻した。
「宮田──その後、安西のところは覗いてみたか」
〈ええ。昨日の夕方行ってきました〉
「どうだった?」
宮田の声は沈んだ。
〈変わりないですね。安西さんはベッドで……目はパッチリ開いているし、どう見ても起きてるとしか思えないんですけど、医者のほうは遷延性意識障害とほぼ断定したようです。奥さんがそう言ってました〉
「奥さんの様子は?」
〈それが奇妙なぐらい明るくて……。無理してるんでしょうね〉
「だろうな」
〈それに、息子さんが可哀相で……。病室の隅で暗い顔してました。本当なら楽しい夏休みなのにねえ……〉
重苦しい言葉が、そのまま悠木の胸に重く伸《の》し掛かってきた。病院の中庭でキャッチボールをした時の、燐太郎のくしゃくしゃの笑顔と黄色い笑い声が思い出された。そうだった。燐太郎はまだ声変わりすらしていない。
その小さな発見が、電話を切った後も悠木を気鬱にさせた。
壁際の席には、追村次長と等々力社会部長の顔が並んでいた。悠木は二人の上方の壁時計に目をやった。一時半。日航の紙面会議までにはまだ三十分ある。
悠木は玉置のポケベルを呼んでおいて、原稿の見出しにざっと目を通した。
≪悪夢の事故から一週間。炎天下、懸命の捜索作業続く≫≪ボイスレコーダー分析・今週中にも中間報告≫≪新たに乗客の遺書見つかる≫≪日航副社長、遺族に百五十万円の見舞金≫≪初七日・墜落現場に花と線香≫≪運輸省航空事故調査委員会・隔壁の破片組み立て終了≫≪羽田と成田で隔壁の一斉点検≫≪墜落日航機と同型、香港でエンジントラブル≫≪大阪の「しりもち事故」・修理はボーイング社まかせ≫
物音に顔を上げた。
岸が出社してきたところだった。頬の肉が緩み、何やら話したそうな顔だ。
「どうした、ニヤついて」
「わかるか」
「わかるようにしてるんだろう。なんかいいことでもあったのか」
「神沢の件、よかったな」
その台詞なら、ゆうべ電話で経緯を知らせた時に聞いた。
「言いたいならちゃんと言え」
「昨日で四十になった」
悠木は鼻で笑った。
「俺は先月だ。嬉しくも可笑しくもなかったけどな」
「停戦だとよ、バースデー停戦」
岸の顔はさらにニヤけた。
ああ、と悠木は得心した。岸をバイ菌扱いしていた二人の娘がいい顔を見せたということだ。
「カズちゃんとフミちゃんか」
「まったく久しぶりだぜ、一家団欒なんてよ。実際、涙が出そうになったもんな」
「一気に終戦に持ち込めそうか」
「そいつはわからないさ。今夜帰ってみないことにはな。けどまあ、平和の兆しあり、ってことだろ。どう思うよ」
悠木はオーバーに頷いてやって、頭に浮かんだ淳の顔を吹っ切るようにデスクに腕を伸ばした。電話が鳴り出していた。
〈玉置です。呼びましたか〉
比較的落ちついた声だった。
悠木は椅子を回転させ、まだ喋りたがっている岸に背を向けた。
「悪かったな、玉置。お前のネタを生かせなかった」
〈………〉
「事故調のマークを続けてくれ。バラバラの隔壁が現場で組み上がったらしいからな」
長い間《ま》の後、玉置の気張った声が耳に届いた。
〈悠木さん……俺、もう忘れますけど、一つだけ聞いていいですか〉
「ああ」
〈………〉
「遠慮なく言え」
〈……悠木さんがデスクじゃなかったら、あの原稿、載っていましたか〉
数秒思案し、悠木は答えた。
「おそらく載った」
〈わかりました。すみませんでした〉
玉置は早口で言った。
「謝るなら俺のほうだ。ただ忘れるな。お前の先は長いんだ」
空疎な言葉だったかもしれない。
この先どれほど長く記者をやろうとも、二度と今回のような巨大事故に出くわすことはないだろう。悠木にはわかっていたし、若い玉置にだって、ほんの少し想像力を働かせればわかることだった。だが、そう言うしかなかった。たかだか一週間前まで、悠木自身、「大久保連赤」を超える事件事故が群馬県内で起ころうなどとは想像すらしていなかったのだから。
壁際で、追村と等々力が立ち上がった。局長室に向かって歩き出す。二時丁度だった。
悠木も原稿の見出しを書き出したメモを手に立ち上がった。玉置と電話で話し、禊《みそぎ》を済ませた思いがしていた。確実に「日航離れ」の進む局幹部と局員を刺激しつつ、今日以降も詳報にこだわった紙面を作る。日航全権デスクに残された仕事がその一点に絞られたことを、局長室に向かう悠木は疑っていなかった。