「悠木、今日のメニューは?」
粕谷局長が言った。
悠木はメモを読み上げてから顔を上げた。
「県内唯一の罹災者の遺体が確認されたわけですから、本記を一面トップ。関連記事を社会面、二社面で全面展開します」
粕谷と等々力部長は頷いた。
悠木は追村次長の顔を見た。無表情で自分の手元の資料に目を通している。昨日は危うく掴み合いになりかけた。まだ尾を引いているのか。
粕谷が困った顔を追村に向けた。
「おい、どうなんだ?」
「異存はありません。ただし」
追村はジロリと悠木を見て、資料の用紙の一枚をテーブルに滑らせた。
「一面には必ずこの四本も載せろ」
悠木は用紙を手にした。四本の記事の仮見出しが箇条書きされていた。
≪富士見村長選挙 明日告示≫
≪赤城村議選 明日告示≫
≪草津音楽アカデミー開幕≫
≪群馬県少年野球大会決勝≫
「富士見村長選は候補者二人のツラ写真を付けろ。草津のアカデミーはオープニングコンサートの写真、野球は無論、胴上げ写真だ。わかったな?」
追村の口調は威圧的だった。
「村長選はともかく──」
悠木は用紙の項目を指でなぞった。
「音楽アカデミーは二社面、少年野球はスポーツ面でいいでしょう」
「駄目だ」
すぐさま重々しい声が返ってきた。
「草津音楽アカデミーは文化庁と県も後援してるんだ。お前にはわかるまいが、チェロの巨匠ピエール・フルニエやBBC交響楽団の首席ホルン奏者アラン・シビル、指揮者にはデビッド・シャローンを招いた豪華版だ。県紙として一面で扱うのは当然だろう」
「しかし、日航の記事と噛み合いません。あまりに呑気すぎる。ましてや少年野球の一面はないでしょう」
追村は手元の資料からコピー用紙を抜き取って悠木に突きつけた。数日前に文化面に載った草津音楽アカデミーの「前触れ原稿」だった。バッハ生誕三百年を記念した「バッハと息子たち」をテーマに二週間にわたって開催される予定。午前中は器楽マスタークラスのレッスン。午後は公開レッスンやコンサートなど多彩なイベントが繰り広げられる──。
「お前、これを開催するのに、関係者がどれだけ苦労したか想像できんか? 日程調整や海外の奏者との折衝、宿泊施設の手配、リハーサル、PR。丸々一年掛かりだよ。一年後の今日にピタリ照準を合わせて県民が汗をかいてきたんだ。その連中に犠牲を強いるな。日航は落ちた。五百二十人死んだ。だがな、それはそれ、これはこれだ。国際的にもユニークだと注目を集めているこの音楽祭のニュースバリューが日航ごときに食われてたまるか」
悠木は黙った。
追村の言っていることが正論であることはわかっていた。悠木にしたって、墜落初日に祈ったように、ジャンボ機が長野側に落ちていたとすれば他人事《ひとごと》だった。ソファにでも転がり、ぼんやりと御巣鷹山の現場のテレビ映像を眺めていただろう。
「草津アカデミーの件はわかりました。しかし、少年野球の胴上げ写真はあまりに無神経すぎませんか。死んだのは球児の父親なんですよ」
悠木が言うと、追村は即座に反論した。
「逆の考え方だってできるだろう。親父さんは野球が好きだった。却って喜ぶんじゃないのか。供養になる、そう思えばいい。要するに、気持ちの持ち方一つってことだ」
「しかし」
「少年野球は社長の命令だ」
追村は痺れを切らしたように言った。
「北関が部数を伸ばしたのはな、スポーツと人事で人の名前を目一杯紙面に載せてきたからだ。一昔前まで、スポーツと名のつくものなら、どんな小さな大会でも試合結果と出場選手をブチ込んできた。子供の名前が新聞に出れば親は買う。そうやって顧客を増やしてきた。たった五万部時代に入社した社長が作った神話だ。踏みにじるな」
悠木は頭の中で行数計算をしていた。
四本の記事と二枚の写真。さほどスペースは取るまい。一面トップが皺寄せを食うことはなさそうだった。見方を変えるなら、一面に四本の記事を受け入れさえすれば、その他の面は自由に作れるということだ。日航の記事はふんだんに盛り込める。悪い取引ではない。悠木はそう判断して頷いた。
粕谷がホッとした表情を覗かせた。
「じゃあ、それで決まりだな。実のところ、俺も追村に賛成だ。日航は日航として力を入れ、通常の北関に戻すべき部分は戻していったほうがいい。日航は永久に続くわけじゃないが、北関のほうは少なくとも永久を目指して次の連中に引き継いでいかねばならんからな。じゃあ、終わるか」
一寸迷ったが、悠木は小さく待ったの手を粕谷に向けた。
「局長、ちょっといいですか」
「何だ?」
「実は今日、出版局に寄ってきました」
追村の条件を呑み、平穏のうちに会議が終わった。こんな時でもなければ言いだせそうにない話だった。
「出版? 何しに行ったんだ?」
「日航絡みで本を出せないか。そう打診してみました」
追村ばかりか、粕谷も露骨に嫌な顔をした。
理由はわかっていた。
北関編集局は「大久保連赤」でさえ本を出していない。悠木の朧げな記憶によれば、当時、粕谷と追村が出版局に掛け合いに行った。おそらくは、その頃から出版の主だった茂呂に一蹴された。自分らの勲章である「大久保連赤」が形になっていないにもかかわらず、降って湧いたように起こった日航を本にされては面子《メンツ》が立たない。というより、感情的にどうにも面白くない。二人の顔からは、そんな屈折した思いが読み取れた。
「こんなにスタンドプレーが好きだとはな」
追村が皮肉っぽく言った。
悠木は答えず、等々力の顔を盗み見た。
無表情。そう見える。
佐山と神沢の現場雑観を潰した潰さないで激しくやり合ってからというもの、等々力は明らかに悠木に対する嫌悪の表出を弱めていた。若手の芽を摘もうとした自らの内面に刃を突きつけているのか。それとも、日航事故の巨大さに突き動かされて、いよいよ「大久保連赤」を手放す気になったか。
粕谷がつまらなさそうに言った。
「で、茂呂のタヌキはどう言った?」
「それが──」
悠木が言いかけた時だった。局長室のドアが軽くノックされた。入室してきたのは千鶴子だった。悠木の脇に回り込み、手にしていたメモを差し出して囁いた。
「この人が会いたいと来ています」
なぜ口頭で名前を言わないのか。首を傾げつつ悠木はメモに目を落とした。
いきなり横っ面を張られた気がした。
望月彩子。
死んだ望月亮太の従姉妹。瞬時に記憶が蘇っていた。一昨日、彼女は社に電話を寄越した。高崎局番のその番号に掛けたが不在だったので、留守電に、またこちらから掛けると吹き込んでおいた。だが──。
忘れた。
その日に「隔壁」のスクープが急浮上し、頭から電話のことが消し飛んでいた。
「どうした?」
粕谷が怪訝そうな顔で言った。
「いえ……」
この場で明かしたい名前ではなかった。
「誰が来てるって?」
粕谷は、悠木と千鶴子を等分に見て言った。
「知人です」
反射的に嘘を口にして、悠木は千鶴子に顔を向けた。
「応接に通しておいてくれ。会議が終わり次第行く」
「はい」
「いや──」
すぐに千鶴子を引き止めた。
「地下食堂に案内して、何か飲み物を」
千鶴子は万事承知の顔で頷き、部屋を出ていった。
「いいのか」
粕谷が探る目で言った。悠木が頷くと、じゃあとばかり話を巻き戻した。
「本のこと、茂呂さんは何て言ったんだ?」
「そんなもの誰が買うんだ──そう言って取り合いませんでした」
だろうな、というように粕谷と追村が同時に頷いた。茂呂に対する嫌悪と、悠木が弾き返された安堵とが混じり合った奇妙な顔だった。等々力は音のない息を吐いた。やはり、気持ちは粕谷たちに近いのだろう。
悠木は大きく息を吸い込んだ。
「北関としてきちんとした形で後に残すべきだと思います。飛行コースのない群馬県に落ちるはずのないものが落ちたわけですから、確かに、もらい事故という側面があることは認めますが、しかし、県内で世界最大の事故が起きたということもまた事実です。これをただやり過ごしてしまったら、新聞社としてひどくみっともないことになる。地元紙の意地を見せる意味でも、部数は少なくて構いませんから、是非とも──」
三人の幹部の反応は薄く、とりわけ、粕谷と追村は右から左に聞き流しているふうだった。
喋っている悠木のほうも気はそぞろだった。
望月亮太の死は自殺に類するものだった。感傷は必要ない。無理やりそう言いくるめて保ってきた心の均衡が、望月彩子の出現によって破られる。そんな予感が胸騒ぎを大きくしていた。