ぼくは豆ごはんが大好きだ。子供の頃から現在に至るまでこの心は変らない。ぼくは子供の頃を戦中と戦後の物資が不足だった時代に過したせいか、びっくりするようなごちそうは食べていない。そんな時代に食卓を飾った唯一のごちそうは、母の手作りのえんどう豆のごはんだった。
今でもそうだが、豆ごはんの時はぼくはほとんどおかずを必要としない。豆ごはんを一番おいしく食べるには他の一切の、たとえおみおつけやおしんこでさえ豆ごはんの純粋な味覚をこわしてしまう。だからせいぜいお茶があればそれでいい。
普段ぼくはごはんはせいぜい一杯しか食べられないが、豆ごはんとなると、三杯から下手すると四杯位食べてしまう。勿論一切のおかず抜きだから満腹するまで食べるとこの位の量になってしまうのかも知れない。ぼくがどうして豆ごはんが好きか、と問われても、ただ一言、「おいしいからだ」としか答えようがないが、豆ごはんは何となく豆の緑と米の白がキラキラと光ってきれいだし、田舎の自然の風景が懐しく想い出され、自分が子供の頃のように無邪気な姿に帰れるような気がするからだ。
だいたいぼくは食べ物に関してはごちゃごちゃしたものより単純なものが好きだ。オードブルからデザートまで次から次へと現れるフランス料理のようなものはどうもにが手である。単純であるためには一品料理が最も理想的で、これが一番おいしい。豆ごはんもそうだけど、例えば栗ごはん、赤飯、松茸ごはん、たけのこごはん、しそごはん、芋ごはんのようなごはんと一緒くちゃにたいたものが一番好きだ。
こうした食べものの好みも、実をいうと性格からきたもので、ぼくは世の中全てに関して面倒なことが大嫌いで、しかもせっかちだから、簡単なものですぐできるものが好きなのである。料理ひとつとっても料理人が台所で大格闘して作っているような料理は、想像しただけでこちらが疲れてしまうのだ。そのくせ矛盾しているがぼくは自分の仕事となると印刷所の製版者が発狂するような複雑怪奇な原稿を入稿してしまう。これは食べものの反動かも知れない。
ぼくは食べものに関してはあまりうるさい方ではないはずだ。家では玄米や麦めし、そして菜食をしているから、そう大してごちそうを食べているわけではないから、よその家などで頂く食事がやたらにごちそうに見える。この間なんか人肉を食べる夢を見てしまってからますます肉が食べられない感じになってきた。
えんどう豆のシーズンオフは豆ごはんが食べられないので淋しい限りだ。瀬戸内晴美さんなんかはぼくの顔を見ると必ず豆ごはんのことをおっしゃる。するとぼくは急に自分が瀬戸内さんの子供のようになって瀬戸内さんがお母さんに見えてくるのだ。豆ごはんというのは不思議なもので、このことが話題になると、ぼくはたちまち子供のようになって、誰かにあまえたくなってくるのだ。
豆ごはんはどうやらぼくにとっては母の愛のようなものらしい。そういえば妻がぼくに豆ごはんを作る時などは、まるで彼女がぼくの母親になったような顔をして、そのような口調で、ぼくをあやしたり、しつけたりする。こんな原稿を書いていると無性に豆ごはんが食べたくなってきた。
一昨年家族でアメリカへ行った時などはあちらで連日豆ごはんを作ってもらい大喜びしたが、子供なんかはあまりの毎日さに、豆だけをはずして食べていた。アメリカ産のカリフォルニア米というのは日本の新潟米などよりはるかにおいしく、豆ごはんには絶対カリフォルニア米が最高だと思った。