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なぜぼくはここにいるのか63

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:  もう一つの旅 腹の底からつきあげてくるような息苦しさが続いている。もうそろそろストーンの状態になってもいい頃だ。昨夜
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   もう一つの旅
 
 腹の底からつきあげてくるような息苦しさが続いている。もうそろそろストーンの状態になってもいい頃だ。昨夜に比べると今夜のケーキの量は相当なものだ。煙草の煙を吸込むことのできないぼくは、マリファナをケーキと一緒に混合せてストレートに胃の中に押込んでしまった。多量にケーキを取過ぎたことが少々不安になってきたが、昨夜のような奇妙な想念もなかなか起りそうにもない。しかし聴覚だけはかなり敏感に感応を始めだしているようだ。スピーカーからは金属的ではあるが宇宙的なサウンドがまるで生きもののような動きと形に姿を変え、目には見えないが、ぼくの内部に入込んでくるのが実感としてとらえられた。音に色や形や時間や空間があるのがまるで手に触れるように知覚できるのだ。ぼくの肉体の全細胞が聴覚と化したかのようだ。ぼく自身が耳であると同時に、音でもあるようだ。しかしこの音はぼくが日頃聴いている耳から入る音とは全く異質のもので、ぼく自身の内部から発する音といった方が正しいかも知れない。
 ケーキを食べてから約三十分が経った。しかし敏感になったのは聴覚だけで、昨夜のようにチンパンジーになって部屋中を駆けめぐるというようなことはまだ起らない。夕食をたっぷり取過ぎたせいか、マリファナも酒と同様すきっ腹には強烈に作用するというから、今夜のぼくはきっとこの程度の軽い状態が続くのだろうと、多少の不満はあったが、ことのなりゆきにまかせることにした。
 こんなぼくの欲求不満な表情をすばやく読みとったのか、この家の主《あるじ》のビルが、どこからともなく白い粉を用心深く小さな紙片に入れてぼくの目の前に差しだした。ぼくは一瞬、いい知れぬ恐怖に身を引いたが、彼の穏やかなブルーの瞳が、大丈夫であることを物語っていた。五センチ位の長さに切ったストローを鼻の穴に軽く差込み、彼の指示にしたがって、紙片の中の粉を思切り吸上げた。一瞬軽い眩暈《めまい》のようなものを感じたが、苦痛にはならなかった。
 音楽家のビルの居間の中心には大きなピアノがあり、部屋のインテリアは彼自身の手になる素朴な木の地肌を生かした壁や床からなっており、夕食に招待されたわれわれ四人とビル夫妻の計六人が、ソファーや床におもいおもいの姿勢で瞑想を始めているようだった。日本人であるビル夫人とぼくと一緒にニューヨークに来た写真家のDさんだけは、マリファナ入りのケーキも白い粉のLSDもとらなかった。
 ぼくのLSDに関する知識といえば、例えば鳥になったつもりでビルの窓から飛出し、そのまま天国に行ってしまったとか、殺人を犯したとか、気違いになった者がいるとか、恐怖する事柄が余りにも多かったが、しかし別の体験者によると、自分の前世や来世を知ったとか、地球の創成期に立合ったとか、神を見たとか、何でも非常に壮大な宇宙観に裏付けされた旅行ができるということだった。恐怖することより好奇心の方が先に立ったぼくは、物は試しだと思い、勇気を出して脳天にLSDを吸上げた。
 まるで時限爆弾を脳天に仕掛けて、その爆発時を今か今かと恐怖と期待で待っているような気分に襲われ始めた。スピーカーからはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」が色彩的な音となって部屋の中に流込んでいる。まるでチューブから絵具を次から次へとしぼり出しているように感じられた。
 その時ソファーに腰を下したぼくの前で寝そべっているマンスールがいきなり、「ラビ・シャンカールがシタールを演奏している」といいだした。ビートルズのメンバーにラビ・シャンカールが加っているはずなどないのに、一体どうしてラビ・シャンカールが演奏しているのだろう? とぼくまでそんな風に思ってしまった。ところが、この時ぼくはわれながら自分の眠れる脳細胞の一部が活性化し始めたことに気づき欣喜雀躍した。ビートルズのこのレコードは、今まで百回以上も聴いているもので、今さらラビ・シャンカールがシタールを演奏しているなんてこんな馬鹿げた考えが起ったことの方が不思議な位だ。ところが、次の瞬間この謎が解けた。このアルバムでシタールを演奏しているのはビートルズのジョージ・ハリスンであるが、シタール奏法を学んだ師がラビ・シャンカールであるために、シタールの音が瞬間的にラビ・シャンカールのイメージに結合してしまったのだ。このように書けば、なんだ、つまらないことに感心するな! といわれるかも知れないが、この印象が銃弾で撃たれたような強烈な衝撃でぼくを内部から説得するのである。このような意識が働き始めるとそろそろLSD効果の現れに違いないと、ぼくは次に起ってくる想念を待った。
 どの位時間が経ったのか全くわからないが、ぼくは突然黄金色に輝く回転する大きな光の玉になって空洞の中をものすごい速度で上昇している。空洞の壁はぼくの発する光で、ぼくと同様|眩《まぶ》しいほど輝いている。これは一体どうしたことだろう。さっきまでビートルズの曲を聴きながらソファーに坐っていたはずだ。いくら大きく目を見開いても、ぼくに見えるのは頭上に小さく光る空洞の円い出口だけだ。ぼくは最初ここが地球の内部から地上に通ずる長い洞穴だと思ったが、やがてこの状況はぼく自身の生命の誕生の瞬間だということに気づいた。宇宙空間に吸収されていくような、金属的な音とともに今まさにぼく自身が誕生しようとしているのだ。かつて経験したことのないような感動的な瞬間だ。ぼくは思わずぼく自身が神の存在であることを悟った。大声で、「これはすごい!」と叫んだ。それと同時に上昇中の光だった自分はもはやそこにはなく、現実の肉体をもった自分にもどり、ソファーの中で、「すごい!」と叫んでいた。さきほどの金属音は、部屋のスピーカーから流れているレコードの音で、今は異った音に変っていた。
「さっきの神の音楽は何ですか?」とビルに聞いた。「ワグナーだ」と彼は答えた。ワグナーなんて一度も聴いたことはなかったが、ぼくはこの全くすばらしい音楽家を自分一人が独占していることがもったいないような気がして、他の五人の人々に、ワグナーの素晴しさを語り始めた。
 ワグナーの賛辞の言葉はぼくの口からほとんど無意識的に、スピーディに、しかも尨大な言葉としてあふれ始めた。とどまることを知らない言葉の洪水に、ぼくは疲れ始めた。
 辺りを見回したところ、誰もぼくの話を真剣に聞いているような様子はなく、それぞれが自分の内面の旅に飛びたっているのか、痴呆的な表情さえしている。この人達を相手にしても仕方がないと思ったぼくは、正気のビル夫人に紙とボールペンを要求して、ワグナーのポスターを作ってもっと広く、しかも多くの人々に宣伝することに考えを切変えた。『ワグナー』という文字だけを書いたポスターが、最も訴求力のあるものだという考えに落着き、このポスターを部屋の入口のところに貼ろうとした。
 ところがここで不可思議なことが起った。ポスターを入口のところに貼ろうと思った瞬間に、今坐っていたソファーから四、五メートルも離れた入口にぼくが立っていた。一体これはどうしたことなのだろう? ソファーから立上がって入口のところまで歩いて行った記憶が、一切ないのだ。このテレポーテーション(瞬間移動)は想念と同時に起った光よりも早いスピードだった。この一瞬の奇蹟的な事実に、ぼくはある種の恐怖さえ感じ、ぼくの横に坐っていた写真家のDさんに、どのようにしてぼくはこの入口に来たのかと質問した。すると彼はぼくが確かにソファーを立って入口のところまで歩いていったと説明した。しかしぼくは自分の行動の記憶がないために、彼のいうことを信じることはできなかった。
 他の四人にも同じことを尋ねた。答えはDさんと同じだった。
 ワグナーのことはもうぼくの頭から去っていた。今は喪失した記憶だけが問題になっていた。記憶喪失した時間のことだけがぼくの頭の中に拡大化され、この空白の時間と空間を埋合せる意識作用に全てが集中し、この謎が解明されない限りぼくは狂気してしまいそうになった。いや、ぼくはこの時、自分が確かに気が狂ったのではないかと感じた。そしてぼくは大声で、「ぼくは気違いになった!」と叫んだ。その自分の大声でわれにかえったぼくは、LSDによる幻覚作用が働いていることに初めて気づいた。
 LSDがこんなに現実感を喪失させてしまうとは想像以上のことだった。
 昨夜のマリファナや、不眠症で睡眠薬を呑み過ぎた時や、飲めないアルコールを無理に飲んで大変な目にあった過去のどのトリップ状態よりも、このLSDの与える脳への刺激は想像を絶する強烈なメカニズムをともない、ぼくの脳細胞の配列を変えてしまったようだ。しかしまだこのような状態が序の口であるということが次に起る数々の状態によって示される。
 話は喪失された時間と空間にかえるが、ぼくとしては何とかソファーから入口までの行動の軌跡の空白部分の記憶を回復しなければ、ぼくの今日まで生きてきた長い時間がたったわずかな喪失部分により一旦断絶してしまうのではないかというような絶望感に襲れ、どうにもならないような気になってきた。
 部屋の柱時計を見ると、午後九時三十分だ。時計は確かに作動しており現実の時間を示しているようだが、ぼくにはこの時計の示す現実の時間をどのように読み、どう時間というものを理解していいものか全く困り果ててしまった。というのも先ほどのぼく自身の誕生からワグナーの件に至るまでの時間が現実の進行する時間とどうも異っているように思えたからだ。それはぼく自身の時間と現実のそれとがどうしても重り合ないのだ。ぼくは明らかにこの現実の時間帯から離れたもうひとつ別の次元の時間内を通過して、今再び現実の時間内にもどって来ているとしか考えられないのだ。このように二つの時間の流れがわれわれの周囲にあるということを、どのように知覚し説明すればいいのだろう。
 そこでぼくは日頃よくやる方法だが、さっきまで記憶していたことがふとした動作などで忘れることがあると、このような時は、再び数秒前と同じ動作や状況を設定して記憶を回復させるのだが、これと同じ方法を今回もとってみようと思い、もといたソファーに再び坐り、そして入口のところに向って歩いてみようと考えた。
 ところが又々ぼくは大きな難問にぶつかり悩まなければならない羽目に落ちいった。ソファーから立上がろうとした瞬間、ぼくの肉体がついてくるのだ。肉体を動かさなければ動作が起せないのは当り前の話だが、このことがどうしても理解出来なくなってしまったのだ。立上がろうとするのはぼくの意識である。ところが肉体まで一緒に動き始めるということは一体どうしたことだ。実は何度も何度もぼくは意識だけ立上がらせようと試みたが、何度試みても肉体がついてくるのだ。この動作を繰返すことにより、やっとこの肉体がぼく自身の意識が宿っている場所だということに気づくまでかなりの時間を要した。
 今まで自分の認識は五感で感じる肉体を優先していた。だから想念と共に肉体が動きだしたときには、これは一体どうしたことだろうと不思議に思ったくらいだ。意識だけは研ぎすまされた刃物のように鋭敏に活性化しているが、肉体に関しては机や椅子と同じように物としてしか知覚できなくなっているようだ。
 だから机の足が人間の足のように動き出せば不思議なように、ぼくの肉体の一部が動き出すとどうも奇妙に感じるのだった。肉眼では自分の肉体は見えるが、心の目には肉体として映らない。本当の自分は肉体ではなく、肉体に宿る魂こそぼく自身であるということがありありと実感できた。そしてこのことと同時に、自分自身の想念(思想)イコール肉体という観念も明白となった。どのような想念でもそれは肉体を通じて必ず三次元の場に実現する。奇蹟の科学の秘密は、どうやらこの考えを発展させたところにあるのではなかろうか。思念はエネルギーとなってわれわれの未知の次元に存在する波長を帯びて再び三次元に物体現象を起すのではなかろうか。さらにこの理論を押し進めるとカルマ(因果)の法則が成立するのではなかろうか。
 誰かがぼくの顔を見て、ぼくの顔の皮膚の下を流れる静脈が解剖図のように見える、といって驚きの声をあげた。ぼくは相手の顔の中にそれを見たいと思ったが、それは見えなかったが、床の上に寝そべる数人の人達が、大自然の一部に見えた。ぼくの坐っているソファーから二メートルたらずのところにいる人達が山や野に見えた。そしてぼくは山や野の大自然も、人間と同じように顔や肉体や心を持っていることに感動した。寝そべっている人達は、ぼくの方を見つめながらとても優しい表情をしている。このことは次の瞬間、大自然がぼくを見つめて優しく微笑んでいる姿に変るのだ。誰かが手足を動かすと、人間の姿をとっている大自然の手足が動いたと感じる。ぼくのところから彼等のところまでの距離が何十キロも何百キロもあるように感じ、その間に美しい空気が存在し、しかも目に見えないはずの空気が見えるのだ。それは何ともいえない透明度をもった愛の感覚にも似たような清らかなものだった。ぼくはこの奇妙な感覚の世界を隣に坐っている素面《しらふ》の写真家のDさんに、絶賛しながら彼にもLSDを勧めるのだが、彼はそれを拒否するばかりだった。たった今体験しているこの素晴しい贅沢な感覚を彼にも分ちたいという気持が強く支配し、ぼくはかなり執拗に彼を口説いたが、どうしても彼の強硬な意志を曲げさせることは不可能だった。
 ストーン状態になって当初から、ぼくは湧起る想念をいちいち言葉にしてしゃべり続けているのだ。ぼくの唇は数秒の沈黙もなく、ただただ機関銃の如くありあまる言葉の洪水に押流されんばかりに動きっぱなしだ。声は変り、喉は痛み続けているのだが、どうしてもぼくの口から言葉を封じることは不可能だ。あまりの苦しさに意識的に止めてみるのだが、ほんの二、三秒さえももたないのだ。沈黙すると発狂するのではないかと思い、そうかといってしゃべり続けているこの状態こそ発狂そのものではあるまいかと考えだすと、全ての想念がこの一点に集中し、このことから逃れることが不可能にさえ思えてきた。一瞬ぼくはこの言葉の暴力により死ぬのではないかと思始めた。突然襲いかかった死の不安は益※[#二の字点、unicode303b]求心的にある一点にぼくを向わせた。それは誰か早く病院に電話をして救急車を出してもらいたいということだ。
 ところが、このことを口にするのが非常に恐しかった。もしこのことを口にすれば、ぼくの想念は救急車の一点に絞られ、このことを実現させなければ承知できないような気がしたからだ。するとぼくは麻薬患者として逮捕されるに違いない。素面《しらふ》のビル夫人は心配し、ぼくに水を飲ませたり、意識の軌道修正をしたりして、このバッドトリップから何とか解放させようと努力してくれるが、何ともならない。ぼくはなおもしゃべり続けながら、人間に言葉を与えた神について神を罵倒しはじめた。今ぼく自身を支配しているのは魂の無意識界であって、顕在意識は無力に等しいはずだ。ところがぼくの魂の声を言葉という単なる機能が勝手に作動しているに過ぎないのだ。もしぼくが言葉を知らなければこんなに苦しむこともなかったはずだ。胸に手を当て心臓の鼓動を調べた。早鐘のごとく激しく乱打している。死は近いと悟った。
 依然としてぼくの唇からは言葉が濁流のごとくひしめきあい、のたうちあいながら飛び出しているが、さっきに比較すると少し心が落着いてきたようだ。安心したぼくは辺りを眺めた。もうここには部屋もなく皆なは姿を消していた。目の前に紅葉した山が見える。ぼくの足元には濃い霧か雲がかかっていて、山だけしか見えない。時々、雲間からC字型に曲った山道のようなものが左下の眼下に見える。何ともいえない奇妙な不気味な光景だ。静寂そのもので物音ひとつしない。まるで死後の風景だ。
 と、思った瞬間ぼくは取返しのつかないことをしてしまったと思い、慌てふためいた。ぼくは本当に死んでしまったのだ。どこからともなく、「お前は死んだ」という声が聞えてきた。ぼくはあわててぼくの肉体の存在の確認を急いだ。ぼくの手と思われるものが、ぼくの足と思われるものを撫でまわしながら、ぼく自身の生死を確認している。しかしぼくの肉体と思われるものを自分の肉体であるという知覚と保証がどこにもなく、ぼくは全く不安と絶望に途方に暮れてしまった。肉眼にはぼくの肉体が見えるのだが、このことが自覚できないのだから、まるで肉体が喪失してしまったことと同じなのだ。かりにこれが自身の肉体だとわかっても、実感がないためにぼくが生前記憶していた肉体の理念の映像化ぐらいにしか思えないのだ。
 いよいよ胸がはりさけるほどの悲しみに襲われ始めた。そして大声で、「ぼくは死んでしまった!」と泣叫んだ。周囲の人達はこんなぼくの狂乱状態に驚きと心配はしてくれたものの、ぼくの死についての理念は自制不可能になってしまった。悲しくって泣くのだが、どうしたことか一粒の涙も流れない。やはりぼくの魂と肉体は直結していないのだ。泣いているのは魂であって、肉体ではない。ついに肉体から離魂して、真のぼくは今霊界にいるのだ。
「どうしてぼくは死んでしまったのだ!」今となっては悔んでも悔み切れない生への執着がどっと襲ってきて、ぼくをますます悲しみのどん底につき落してしまった。赤茶けた山と曲りくねった道が雲間から姿を現した霊界の風景と、皆なのいる部屋の風景が、交互に展開するのだが、部屋の風景が見えたからといってぼくはまだ死んでいないという証明にはならず、霊界にあっては現界の風景を見ることなど容易なことで、ぼくは決してこの現実的な部屋の風景を現実とは思えず、赤茶けた山の風景の方こそ今のぼくにとっては現実であると確信している。これが分離されたもうひとつの現実であるということさえ理解できなくなっていた。
 突然目の前に家族の顔が並んだ。ついに悲しみが頂点に達し、ぼくは辺りかまわず、「家族に逢いたい! 日本に帰りたい!」と大声をはりあげて泣叫んだ。誰かが、「家族をこんなに愛しているなんて素晴しいね」とぼくの狂乱状態を見ながら話合っている。この言葉を聞いた時、今までの恐怖が一瞬ほんのわずかだが軽くなったような気がした。この時ぼくは完全に死んだのではない、まだ生きているのではないかと察した。LSDの力でぼくは振りまわされているのだ、ということが少しずつわかり始めたようだ。
 ぼくは完全にLSDの支配下からまだ解放されていなかったが、ぼくは二度とこんな恐しい体験はしたくないと心に誓いながら写真家のDさんに、「LSDは絶対にやっちゃいけないよ」とLSDの恐怖を説明した。Dさんは笑いながら、「さっきはこんなに素晴しいLSDをどうして拒否するんだ、なんていってたじゃない」と複雑な顔をしながら答えた。
 しかしまだ完全に死の恐怖から解放されたわけではなく、周期的に霊界の光景が眼前に展開し、その度にぼくは現界と霊界のバルド状態(中間状態)の中で苦しみ続けている。ところがこうした状態がLSDが誘発した錯乱であるということが次第に自覚されてきた。こうした考え方がまとまってくると少しは落着いてくるのだが、また発作が起るとたちまち自己制御ができなくなり、誰かに助けを求めるのだ。こうしてぼくは死後の世界から再び現実に戻るためにはぼく自身の不信感と闘わなければならなかった。誰かがぼくが死んだのではないと説明してくれても、他人の言葉が容易に信じられなかった。現実と虚構の区別が全く判断できなくなってしまったぼくは、三次元と四次元の二種類の時間と空間の流れの中で確実に自分の破滅だけを信じながら、途方もない長い孤独の道を歩み続けていた。現実なら現実、狂気なら狂気のどちらか一方だけ見える世界にある自分なら、その場を真の現実と思えばいいのだが、今のぼくには両者の世界が重り合っているため狂気を自覚しなければならず、このことは死より恐しい。
 次に肉体感を喪失しているにもかかわらず、小便がしたいという生理的欲求が起ってきた。トイレに行こうとして部屋の外の廊下に出た。アルコールに酔ったように足元がふらつく。廊下の床が恐しく傾斜して空間がよじれて反転しているように感じた。ふと前方にある台所の食卓を見ると、どうしたことか食卓の足がなく食卓面だけが宙に浮遊している。またその食卓の足元から下は断崖絶壁になって岩や木が辺りに生い茂っている。この光景を見たぼくは、一瞬たじろぎあわてて、もとの部屋に帰ろうとした。振返った真正面に等身大の鏡があり、そこにぼくが映し出された。すぐには鏡の中の人物が自分だと判断できなかったが、やはり見慣れた自分の姿に間違いなかった。どうしたわけか鏡の中の自分を見るのが恐しいような気がして見たくないと思った。鏡の中の自分はまるで魂の抜けたボロ布のような乾ききった肉片にしか見えなかった。ぼくは自分の顔の筋肉を動かしてみたり頬の肉をひっぱってみたりした。鏡の中のぼくがぼくでなければならない自信が全くないような気がした。鏡の中のぼくにはぼくがいないような気がした。他人同様の鏡の中のぼくとはもうこれ以上対面していたくなかった。
 部屋にもどったもののトイレに行く当初の目的を忘れてしまったぼくは、再びソファーに腰を下した。いつの間にか死の恐怖からは完全に解放されていた。そしてこのことをぼくは皆なに伝えた。もうぼくの声は、まるで声帯が破れたようなガラガラ声に変っていた。湧出る想念はひとつ残らず言葉になってぼくの口から放出されているのだ。時計時間で少なくとも五時間はしゃべり続けていることになる。しかしこの間ぼくはぼく自身の誕生から出発して死までの長い旅を体験したが、この大部分はぼくの内なる宇宙を流れる無限の時間の中にあった。拡大された時間でもあり、光速以上の時間でもあり、静止した時間でもあった。あるいは時間の存在しない空間にあったのかも知れない。
 依然として写真家のDさんは、数時間も同じソファーに身を沈めたまま、わずらわしそうにぼくの話相手をしている。ぼくはさかんに彼に時間についての話をしている。ぼくが落込んだ時間の穴は、平面に流れる現実の時間に対して縦に流れる時間だったことや、この魔の時間が目の前のテーブルとわれわれ二人が腰を下しているソファーの間に存在しており、もしDさんが魔の時間を見たいならテーブルとソファーの間の空間を見ればいいと説明し、彼にこのことを強制した。テーブルとソファーの間を彼と一緒に覗込んだぼくは、遥か下方に美しい青空が見えるのに驚いた。この青空はどこまでも深く地の底に展がっていた。このようなところに青空があることに気づいたぼくは、得意になっていつまでも覗込んでいた。
 すると空の下方から何やら赤い玉がぼくの方に上昇してきた。よく見ると、それは丁度野球のボール大にもつれ合った糸ミミズのかたまりのようなものだった。そしてそれがぼく自身のエゴイズムのかたまりであるということもすぐ察することができた。この時ぼくは自分自身のエゴイズムと闘う用意ができているような気がしたので、ぼくはボクシングのポーズをとって目の前まで上昇してきたエゴイズムにパンチを食らわした。エゴイズムは個々の糸ミミズになって何千何万にも拡散して辺りに飛散った。ぼくはエゴイズムに勝ったと思った。今までの想像を絶する苦痛は全てエゴイズムとの闘いだったことに気づいた。ぼくは自分のエゴイズムに勝利して小躍りして喜んだ。今日限りぼくはエゴイズムから解放され真の自由を獲得できると感じた。
 ところがこんな恍惚感もつかの間、再び糸ミミズの玉がテーブルとソファーの谷間から浮上ってくるではないか。それが一つだけではない、次から次へと連続して上昇してくるのが見える。それをひとつずつ強打していくのだが、エゴイズムの玉は無限に続く。
 ぼくは次第に悲しくなってきた。「もうやめてくれ!」と何度叫んだかわからない。しかし、この部屋の人達はぼくを助けることができなかった。ついに悲しみと絶望が頂点に達した時、ぼくはかたわらにあった電話のダイヤルを廻して、出た相手に助けを求めようと思った。受話器の向うから眠そうな男の声で英語が聞えてきた。ぼくは思わず、もうこれ以上エゴイズムを来させないようにしてほしいとこの男に頼んだ。しかし相手の男は突然の意味不明の電話の主に当惑している様子だった。ぼくが見知らぬ他人と電話をしているのを知ったビル夫人は、あわててぼくから受話器を奪い、鄭重に間違い電話であったことを相手に詫び電話を切った。終始ビル夫人がぼくのそばでぼくをリードしてくれており、時には逆らうぼくを上手になだめたり、或はぼくの狂的な世界まで入込んでぼくの理解に極力つとめてくれたりした。
 時計は午前三時を過ぎていた。ぼくは一体いつまでこのような異常な状況を続けなければならないのだろう。再び不安が襲ってくるのがわかった。そして、又トイレに行きたくなった。さっきトイレに行くつもりで部屋を出たのだが、台所が山中の絶壁になっていたことの方に気を奪われ肝腎の用はたさずに部屋にもどってきたのだ。ここはニューヨークのマンハッタンのど真ん中で、山などあるはずがない。このようにかたく信じて、ぼくは再び廊下に出た。前方の台所を見るのが恐しく、自分の足元だけを見ながらトイレのドアを開けて中に入った。便器の前に立って変に萎縮した逸物をズボンの中からつまみ出し、放尿の体勢に入ったところで、ぼくは思いがけないものをぼくの周囲に見た。いつの間にか居間にいた五人の仲間がぼくの周囲をとりかこんでいるではないか。
 ぼくは恥しさにあわててズボンの中に逸物をしまいこんだ。そして周囲を見渡した。しかし、トイレの中にはぼく以外誰もいないのに気づき、今のは幻覚だった、と思いなおし、再びズボンのジッパーを下して、同じ物をつまみ出した。するとどうだろう、再び五人の仲間が眼前に現れぼくの逸物に注目しているのだ。またあわててしまいこんだ。しばらくぼくはこの場でつっ立ったまま考えることにした。そしてその結果、ぼくの目にはこの場がトイレに見えるが、実はここは居間で、本当のトイレは、あちらの居間の方に違いないと解釈した。居間に帰ったぼくは、皆なに、トイレだと思って行ったところが居間だったので、今ぼくの目には居間に映っているこの場がトイレに違いないと思うから、ここで用をたしてもいいかと断って、ぼくはズボンのジッパーを下し中から逸物をつまみ出そうとした。その時誰かが大声で、「ここはトイレではない止めなさい」と叫んだ。
 ズボンの中に手をつっこんだままぼくはあっけにとられて辺りをじっと見まわした。トイレだと思った場所が居間だったのだから、居間がトイレに違いないと信じているぼくを、今の声はますます複雑にさせてしまった。
 現実の風景と、内部から湧起こる印象の風景との相違ははっきり意識の上では認識できるのだが、魂の世界ともいうべき実相はむしろ幻覚の側にあるため、今のぼくにとっての現実は幻影の方なのである。肉体と心は同居しており、この両者の関係は意識化できるのだが、もうひとつ無意識のさらに奥にある深層意識が魂であり、この意識は宇宙意識ともいわれ、万物の意識の母体であり、この意識を開かなければ物の根元である真理に到達できず、お互が主義主張をはり合っているだけでは真の自由と平和は獲得できないはずだ、とこのような意味の言葉が次々とぼくの口から勝手に流れだした。
 ぼくは何だか物の本質が透視できるような気がして、勝手にしゃべりまくる自分の口を閉じようともしなかった。ぼくがしゃべっているというより何か他の力がぼくの口を借りてしゃべりまくっているような気がして、われながら、いいことをいうぞと感心して、この考えをいつまでも心の奥に留めたいと願った。
 幻覚化された世界が真実の世界であり、この肉眼で見える現実こそ虚の世界であり、もちろんこの肉体は真の自分ではなく、真の自分は魂そのもので、われわれはこの存在を知らず、顕在意識にたより過ぎている。ぼくの魂は今活性化し、ぼく自身を超えた人類の創成期から蓄積された記憶の中にいる。何とか自分自身の内部を見つめてほしい、そして自由になってもらいたいと、又々ぼくの一方的なある種の真実と矛盾に満ちた説教が始まった。ぼくは得意になってトイレのことを忘れしゃべり続けた。
 誰かが話の途中で突然ぼくにトイレのことを質問した。するとその途端にぼくの想念はトイレのことに切りかわった。トイレと居間の関係はすでに頭の中でいつの間にか整理され、今度は無事に用がたせると思い、再び便器の前に立ちはだかって逸物をつまみ出した。すると次の瞬間ぱーっと目の前に見渡す限りの美しい草原が展開した。あちこちに乳牛が点在し、のんびりと草を食べていた。ここで小便するとこの草を食べた牛が可愛そうだと思うと、どうしても放尿ができなくなってしまった。この牧場の風景は幻覚であって、生理的な欲求は肉体の世界での出来事だから、現実の便器の中に放尿すれば事は完了するのだと、何度も自分の魂にいい聞かせるのだが、魂は一向に理解してくれない。一体このLSDはいつまできいているのだろう。居間の三人はどうしてあんなに大人しく瞑想できるのだろう。やはりぼく一人が本物の気違いになってしまったのだろうか。そろそろ夜が明ける時間になっているはずだが、無事にホテルに帰ることができるだろうかと、ぼくにとっては珍しく現実的な想念が働き出した。そろそろLSDの効果が醒め始めたのかも知れない。いや、実はとっくの昔に効用は完了しているにもかかわらず、後遺症が幻覚を生んでいるのかも知れない、とぼくはまだまだぼく自身に疑いを抱いた。
 突然飛行機の爆音が頭上をかすめていった。これは現実音である。しかしぼくのいるこの部屋は現在宇宙空間にあるはずだ。それなのに地球からこんなに遠く離れたところをどうして飛行機が飛んでいるのだろう。いよいよ地球に近づいてきたのかも知れないぞと考えた。この部屋が宇宙空間にポッカリ浮いているのが感じられた。ぼくは余りにも遠くへ行っていたようだ。今そろそろ地球に接近し始めたのかも知れない。ぼくの心は次第に落着いてきた。しかしそれでも時々発作が起った。無事にマンスール夫妻とDさんがホテルまで送ってくれるかどうかという心配だ。ぼくはホテルで何か恐しいことを口にしないだろうかとか、安全にエレベーターに乗って自室に入り、小便ができるだろうか、とさまざまな小さなデテールが気になってきた。
 LSDから完全に解放されないままマンスール夫妻とぼくと同じホテルに宿泊しているDさんとぼくの四人は、朝の五時にビル夫妻のアパートを出た。心地よい十二月初旬の早朝の空気がぼくの頭を強く冷した。やっと正気にもどれる自信ができた。マンスールの運転する車はハドソン河ぞいのハイウェーをグリニッチ・ビレッジに向ってつっ走った。
 対岸のジャージーシティーの街の灯が夜露で濡れたガラス越しににじんで水晶のように美しく輝いている。ぼくは無言のままこの不夜城の灯に意識の焦点を合せながら、今夜の奇怪な体験を回想しながら、ぼくは、時間という現実の概念からほうり出された宇宙空間に浮く球体の表面を流れるような不思議な無限の時間の旅からの帰途を着実に実感することができた。
 ぼくの宿泊しているフィフスアベニューホテルのネオンが見えてきた時、何ともいえぬ疲労感が体全体をなぜまわすようにへばりついてきた。
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