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なぜぼくはここにいるのか39

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:  風景を求めて ぼくは子供のころから風景が大好きだ。風景は白いキャンバスのように、ぼくの想像力の源泉となっている。そう
(单词翻译:双击或拖选)
   風景を求めて
 
 ぼくは子供のころから風景が大好きだ。風景は白いキャンバスのように、ぼくの想像力の源泉となっている。そういう意味では音楽と似ているところがある。
 想像力の活性化は、肉体から魂が離脱した瞬間に起こる。白いキャンバスや音楽が瞑想の対象になるように、風景もぼくを肉体の重力から切離して、意識と無意識の狭間を彷徨させてくれる。この時、ぼくは風景の生命力に触れ、宇宙の根源に向おうとしている自分を発見し、ぼくの肉体から切離された魂の実体は、それ自体が想像力であり、この時風景と一体化され、ぼく自身も自然の一部分になってしまう。想像力が枯渇する時、それは肉体に固執しているからである。例えば、夢の世界での肉体感はほとんど希薄である。その証拠に夢の世界全てが想像的であり、芸術的である。
 ものを創造する時、ぼくはでき得る限り意識と無意識の中間地帯から栄養を補給するようにつとめる。そのためには常に瞑想が必要で、風景はぼくにとって瞑想をより深く掘下げてくれる。
 ぼくは子供の頃から日本の田舎の風景の中で育った。この日本の風景は貧しかったが、どこか美しい。しかしこの貧しさが逆にぼくのイメージをかきたててくれた。こうした風景の中でぼくはいつも都会を夢見てきた。そしてぼくは今憧れの都会に住んでいる。この都会はぼくの想像の産物であり、過去の思念の結果としての土地でもある。ぼくは今都会を想像する必要がなくなった。この都会はいつの間にかぼくの肉体になってしまった。ぼくは今この都会という肉体を脱捨てなければ生きていけないところまできているように実感する。
 二年程前からぼくは、時間の許す限り日本の田舎を旅行している。この旅行の仕方は観光旅行的で決して正しい旅行の方法ではないかも知れないが、少なくとも東京という肉体を脱出するだけで、もうこれは充分に想像的である。肉体の移動は風景の移動でもあり、また想像力の旅でもある。
 しかし、この二年ばかり日本中を旅行し、ぼくは非常に幻滅した。というのはどんな場所にいっても、そこは東京的感覚で汚染され、もはやぼくのイメージの中の日本の風景はどこにも発見されない。風景画のコツとして、風景の中に人間を描写すると、画面の風景は急に生き生きとする。それと同じように、もともと人間と風景は素晴しい関係にあり、この両者の関わりが、風景を美しく創上げている。
 ところが今日、人間は風景と関わり過ぎてしまったような気がする。風景の中に人間があるのではなく、人間と人間の隙間に風景が閉込められてしまったような状態である。日本各地どこへいっても人間、人間、人間である。想像力をかきたててくれる風景なんてほんの一部である。昔の人々は風景と人間の関わりの美学を知っており、ある一線を越えようとしなかったはずだ。現代人の欲望をかき乱し、そして想像力まで自らの手で破壊してしまった。
 ぼくは今、本来風景画として成立しにくい人間を描写しない自然のままの風景を描いている。これはぼく自身の才能の問題もあろうが、とても至難の業である。料理に調味料を使用しないで味をつけようとする作業に似ており、非常に困難であるが、人間がかつて地球上に立つ以前の風景こそ、今ぼくは最も美しい風景だったのではなかろうかと考える。(この考えが間違っていることを願いながら……)
 バートン・ホームズの撮った古い日本人の写真を見ると、そこには、人間がまるで木や土や草で創られたような自然で素朴な姿をしている。今日的なアングルで眺めれば決して美しいとはいえないかも知れないが、それだけに彼等は自然や風景の中に溶込み、それこそその一部分であったことを証明しているような気がする。
 想像力の根源は自然や風景の聖霊に触れることにより活性化される。だが、もしこのまま日本の自然破壊が続くなら、日本人は一人残らず、心を持たない機械の一部になり下ってしまうこと必定である。
 
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