ここ一年ばかり、ある雑誌の企画で全国を旅行し、各地の風景を絵に描く仕事をしている。
北海道には北海道の風景、九州には九州の風景があるにはあるが、それらはごく限られた場所だけで、おおむねどこへ行っても同じだ。
車が通れそうな道はすべて舗装され、東京の道路の延長を走っているという感じで、車窓から見る風景も、いわれなきゃ、北海道か九州かさえ区別がつかない。
全国各地に一キロおきぐらいにボウリング場はあるし、同じ形の建売住宅が並んでいるし、ミニスカート、ジーパン、長髪は東京と変らないし、これじゃわざわざ旅行して絵を描く必要がない、とさえ考えてしまう。
まあ、それが証拠に、実際帰京して絵を描くときは、お土産屋で買ってきた絵はがきを参考にして描くのである。第一、絵はがきの場所さえ、現地でさがすのはむずかしい。ひどいのになると二十年程前の風景が絵はがきになっており、現在の密集した家がどこにも写っていないのである。
最初の絵の発想は、いまのうちに日本の自然を描いておかねばあと数年もすると描けなくなってしまう、と思って旅行に出たはずだったが、もうすでに自然破壊はどうにもならないところまで進展してしまっている。風景画のコツとして人間を描きこまない風景画は、なかなか絵になりにくいのである。ところが現実の風景はどうだろう? 人間が風景の中に入過ぎてしまったために絵にもならないような風景になってしまった。
スモッグで山はかすみ、夜空の星もない。道路のために山は切りくずされ、山の頂上にはドライブインや展望台、海岸線には工場が建並び、海水は廃液で色が変ってしまっている。
ぼくが求めていた風景は、古い絵はがきの中にしか存在していないようだ。だから、この古い絵はがきを見ながら、ぼくの心の中にある、太古の風景を描くことにした。つまり人間が風景の中に現れる以前の風景である。ここには人間がいないので、欲望もない。
少し以前までは人工的な美が美しいと思った。しかし、今ぼくはこの旅行の終りに近づき、自然の美に勝るものはないという確信を持つようになった。