三年ほど前からぼくは夢日記をつけている。こんなことを始めたそもそもの原因は、父の死を暗示する夢を見てからである。このような夢によってぼくはいろいろの未来に起こる出来事を予知させられた。父の死をはじめ、実母の死、近くの家の火事、爆発事故、自分の交通事故、あるいは仕事のアイデアなど、ぼくは夢によって随分と導れているような気がする。
このように考えてみると、夢はまるでぼくの守護神のような気になってくる。夢は日ごろの願望の具現化だということらしいが、すべてそうではないような気もする。かりに親の死を願望していたとしても、死のタイミングと夢が合うというようなことがあるだろうか。
無意識の世界はこうして眠っている間でも活動しており、他人の無意識と常に通じ合っているような気がしてならない。起きている間は無意識はむしろ顕在意識の陰に隠れ、その効果はなかなか現れにくいが、それにしてもわれわれの日ごろの行動にはかなり無意識が作用していると思う。
特に直感が働く時などは無意識からの通信だと思えばいいのであって、この無意識は、だいたいわれわれの味方をしてくれ、時には危険や災難から身を守ってくれるようだ。仕事の時などすばらしい発想が浮ぶことがたまたまあるが、これなんかも無意識の領域からの直感で、なんらかのかたちでわれわれを援助してくれている。
こんな時、知識や情報だけにたよっていると、折角の宇宙からの援助も見逃し、逆に状況判断を誤ってしまうことになる。動物が本能的に身を守っているのも、この直感力であるように、われわれ人間も起きている時はこの直感力にたよれば、いろいろの難事から身を守ることができるはずだ。
そして夜は夢の中で未来を予見し、この終末の世の中をできるだけ物に捉《とら》われず、精神だけをいつも宇宙の中に自由に泳がせていれば、何ひとつ怖いものもなく、くよくよしなくても、金が必要な時には、必要なだけ、転りこんでくるようになっている。物への執着、あるいは顕在意識への執着が何よりも人間を堕落させ、恐怖と絶望と不安に追いこんでしまっている。
終末感がくるのもこうした無意識の世界への関心が薄いため、またしても合理的なものだけを信仰するようになるのである。