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なぜぼくはここにいるのか50

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:  宇宙とぼく ぼくが子供のころ、両親は熱心な神仏の信仰者だった。何しろ家中神仏だらけで、そんなに大きな家ではなかったが
(单词翻译:双击或拖选)
   宇宙とぼく
 
 ぼくが子供のころ、両親は熱心な神仏の信仰者だった。何しろ家中神仏だらけで、そんなに大きな家ではなかったが、各部屋に色々の神仏が祭ってあった。その数は二十もあったろう。そんなことからいつのまにかぼくも祝詞のひとつぐらいはあげられるようになっていた。
 しかし、ぼくの神仏への信仰は、困った時の神頼みで、まるで遊び半分の形式的なものだった。というのも、ぼくはこんな日本的土着が不気味に見えて全く肌に合わなかった。まあ頭から拒否しているわけでもなかったが、何しろ自分の内部への関心より、外部への関心の方が強かったものだから、自分が成長するためには、宗教は邪魔なものだと考えていた。
 ——そして十五年か二十年が過ぎた今、ぼくは、どうしたことか宗教的なるもの[#「宗教的なるもの」に傍点]に魅《ひ》かれて仕方ない。このことにはいくつもの原因があるようだ。そのひとつは交通事故により四ヵ月ばかりの闘病生活中、毎日が苦痛と不安といらだちでどうにもならず、ふと開いた宗教書が、わずかながら、ぼくの心をいやしてくれた。苦痛の原因が外部にあるのではなく、ぼく自身の内部にあると考え始めたからである。
 もちろん宗教書の教義の影響である。そして不思議に宗教的なるものに関心が高まるにつれ、ぼくの病状も回復の一途をたどり始めた。しかし病状の回復と宗教書との関係には、まだまだ不信感を抱いていたことは確かであり、いつしか全快とともに宗教書のことも忘れてしまった。
 そして二年ばかり仕事を断ち、海外旅行や、読書などに時間のほとんどをつぶした。読書はもっぱら、精神科学的なものが多かったが、どこかで、宗教的なるものと深いつながりがあることを発見し、再び宗教的なるものに関心を持始めた。こうしてぼくの少しずつの変りようの中で、ついに決定的な体験をしてしまった。これはLSDによる超長時間のトリップ体験だった。ぼくはこの時間のない空間で、ぼく自身の誕生と死を、時には極楽のように、時には地獄のように、めくるめく悦楽と狂気の中で、いやというほど見せられた。この体験を通じてぼくは、ぼく自身の魂の超常的な素晴しさを知ったが、一方、粗雑極まりない自我の醜さも同時に見せつけられた。ぼく自身も知らなかった自分が、目の前で次々と具現化されていくさまは、何と表現していいのかわからない。
 とにかく、この体験はぼくを未知の素晴しい世界に案内してくれたが、その半面、潜在意識を現実という短時間内でアッという間に露呈させられてしまったため、その後の日常生活でぼくは自分自身の多くの欠点と対決しなければならない後遺症に、随分悩まされなければならなかった。
 この体験の後、ぼくは自分自身の潜在意識に非常に関心が強まり、自分の夢の研究を始めるようになった。過去に見た多くの夢が未来を予知していたという経験も何度かあり、ぼくは自分がグラフィック・デザイナーであるということさえ全く忘れてしまうほど、心の科学の研究に傾倒していった。世の中の超常現象の謎の解明は、ぼく自身の心の謎への解明の糸口にもなり、ぼくという一人の人間は、この世のあらゆるものと密接に関係しながら生かされているということなどが、ぼくの物の見方を少しずつ変えていくような気がして嬉しかった。
 ぼくが空飛ぶ円盤に強く魅かれるのも、一年ほど前から、毎晩のように夢の中に円盤が現れ始めたからである。それまでは別に興味の対象でもなかったはずの円盤だったが、研究を始めだすと、実に多くの重要な問題が次から次へと明らかになってきた。そしてぼくの小さな心はいつも大宇宙と通じており、ぼくがたった一人でこの地球に生かされていないという、ごく当り前ではあるが、こんな宇宙の法則に欣喜雀躍しており、また今ぼくはアトランティスやレムリアやムーの失われた古代文明と、現在ここにいるぼくとの関係に何かありそうな気がして、毎日このことばかり考えている。空飛ぶ円盤がぼくにとって何故重要であるかということは、ぼくの生き方とも多少関係してくるので、次回でもう少しくわしくのべる。
 この欄は「宗教」欄であるため、もっと本題を宗教の方に持っていかねばならないのだが、ぼくにとってもし仮に宗教というものがあるとすれば、それは自分と宇宙との関係について洞察することにつき、もしこの関係が心で認知できれば、ぼくは必然的に宗教者になるだろう。
 ぼくが空飛ぶ円盤に対して最も強い関心を持つ理由は、それらがいったいどこから、しかも何の目的でこの地球に飛来してくるのか、ということである。ぼくは過去数回それらしき物体を目撃しているが、このことと関係なく、ぼくは空飛ぶ円盤の実在を信じている。おそらく、円盤の推進力の問題については、現代の科学では想像の域を出ないことだろう。しかし、たとえそれが何を原動力にしているか知らないが、われわれ人類の未踏の科学力によって操作されていることだけは確かなようだ。そしてこの円盤の乗員こそわれわれの知性をはるかに凌駕した生命体であることも確かだろう。
 もし、われわれ人類が、現代において、このような科学を持ったならば、果してどうなるだろう。多くの未解決な問題を残した進化途上の地球人がこれを悪用しないとはだれが保証できるだろう。地球の引力を中和して飛行するとしか考えられない円盤の推進力は、おそらく、われわれがいまだ知らない宇宙の法則の応用によるものに違いない。われわれは宇宙の法則によって生かされている宇宙の中の小さな小さな惑星のひとつであり、またわれわれの肉体は、大宇宙に匹敵する広大なものであろう。
 宇宙の法則は何種類もあるのではなく、ただあるのは客観的な大真理が一つである。もし仮に、円盤が宇宙の法則により機能していると仮定すれば、おそらく、円盤を有する生命体は、他のすべてにおいても、この宇宙と自らをも支配していると考えられるのではなかろうか。われわれは宇宙どころか、自らさえも支配することができない。
 ぼくは熱心な素人円盤研究家のひとりかも知れない。しかし、何がなんでも円盤とコンタクトを持ちたいというような狂信的な者ではない。決して円盤を宗教と考えてはいないが、円盤を研究することは、ぼくにとって宇宙を知ることであり、自分が何であるかということまでさかのぼって考えられる機会を与えてくれる媒介のひとつである。円盤の乗員は宇宙人であるともいわれ、あるいは一万二千年程前に海底に没したアトランティスやレムリアの子孫が地底からやってくるともいわれているが、とにかく相当の高度な知性の持主であることだけは確かだろう。それだけに、彼らの住む世界のすべての難問はとっくの昔に解決されており、ぼくの想像するところでは、正にユートピア世界を形成しているのではないだろうかと、この汚染された地球と比較して、ただただうらやましく思うのである。
 ぼくにとって円盤は空想の産物ではなく、現実であるだけに、もう少し、地球はなんとかならないだろうか、あるいは自分の粗雑な自我がなんとかならないだろうかと、考えてしまうのだ。しかしいくら考えて悩んでみても、今日、ここにあるこのぼくは、過去の想念の結果の具現化されたものであり、いいかえればカルマ(業)の結果なのだ。だから今の自分が気にいらねば、この自分を責めるより仕方ないだろう。こう考えてみると、カルマの法則は宇宙の法則により作用されているのかも知れない。公害による汚染にしても、われわれ一人一人の過去のカルマの結果の集積ということになるのではないだろうか。われわれはあまりにも物質を求過ぎたような気がする。このことが今、カルマとなってわれわれを終末に追込もうとしている。
 最近は宗教ブームである。あらゆる滅亡が語られ、マスコミ、ジャーナリズムの間では終末論ブームだ。終末論の流行というか、いいかたを変えれば終末論のコマーシャリズムである。ここで語られる人類や地球の将来は絶望的である。恐怖や不安や絶望が商品化される中で、どうせ死ぬなら、最後の審判をこの目で確めるのもよかろうと、居直ってしまった生き方も横行している。人間らしく、やりたいことをやって生き、そして死ぬ。こうした考えは、果して本来の人間らしさに忠実なのだろうか。
 人間は本来生れながらにして広大無辺な能力を持っているのではなかろうか。われわれの日常生活の周辺でわれわれは自分で気がつかないまま、テレパシーや予知能力を発揮して多くの危険から知らず知らず身を守っていたりしているはずだ。ぼくはこうした人間本来の超常感覚にめざめ、人間の不思議な能力に関心を持続けることが本当に重要ではないかと思う。
 またこうした感覚は個人的なものではなく、多くの人々と潜在意識の領域でお互に通じ合っており、自分一人で生かされているということは決してないはずだ。
 こういうことはぼく自身にも何度か経験があり、人間の想念のエネルギーの強烈さにただただ驚くことがある。こうした人間関係は個々の主観ではなく、大きな客観的世界に支配された、一なるものであると思う。いつでも、どこにでもあるこの大真理をぼくは本当に知りたい。こんな文章を書けば書くほど、ぼくは自己欺瞞に落ちてしまう。それはまさにダンテの「地獄の入口」である。
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