何年か前、鹿児島へ行ったことがある。
案内してくださる方があって、桜島へ渡った。
島の周囲は、四十キロあるという。まだ道路が完成していないので、一周はちょっと無理です、途中まで行って引き返しましょうと、案内のK氏が言われる。
途中、古里温泉を通るはずである。そこには、林芙美子の文学碑が建っているはずである。車は、島の西岸へ向って進んだ。説明されるまでもなく、古里温泉の所在は知れた。流行歌のレコードがすさまじい響きを立てている。
道路に面した二軒の宿屋の二階の窓から、女たちが首を出して、往来を通る人に何やら話しかけている。
碑はそのすこし先の、左手の高みに立っていた。私たちが車を降りて歩きだすと、後ろの宿屋の方から、女が二人、しきりに声をかけた。
「昼日中から、まったく困ったものです」と、K氏が言葉を濁したところをみると、よほど露骨なことを言っているらしいが、あいにく私には、何のことやらさっぱり聞きとれない。名にしおう薩摩言葉である。
碑は、ひどく汚れていた。
「花のいのちはみぢかくて、苦しきことのみ多かりき」という有名な句を刻んだ石の肌は、拓本をとる墨で真黒になっており、文字の一部は欠け落ちていた。あたりには、キャラメルの空箱や、煙草の吸殻が散乱し、碑の前には、ひからびた花束がひとつ置かれていた。いたましい感じがした。
K氏が写真をとろうといわれたが、どうも、この碑の前に立って記念写真を、という気持になれず、碑を見ているところをそのまま写してもらった。
文明、安永年間の古い噴火の跡を見ての帰り道、大正の大噴火の話になった。
烏島という島は、その大噴火の吐き出したおびただしい溶岩にのみこまれ、人や馬や牛もろともに埋めつくされて、今では桜島の一部になってしまっているという。
もう少し行くと、烏島の跡があり、追悼の碑があるという。私はそこで車を止めてもらった。
勾配の急な、ごつごつした岩の道を、足を滑らせぬように気をつけながら、ほとんどよじのぼるようにして辿ってゆくと、不意に視界がひらけて、そこに碑があった。方二尺ほどの磨かれた花崗岩《かこうがん》の角材が、溶岩にしっかりと嵌《は》め込まれて、その表面に、日本語とラテン語で、句が刻まれている。
「烏島この下に」
ただ、それだけである。私は身の引き締る思いがした。
直截《ちよくせつ》で、簡潔で、あり余る想いを唯一句に凝縮したこの碑銘は、それ自体が巨大な墓石である溶岩の大傾斜に抗して、比類なくみごとに、美しかった。
鹿児島からの帰途、京都で、私は偶然、戸板康二氏に遇った。旅先での奇遇は、たのしいものである。賀茂川のほとりで酒をくみ交わすうち、話は自然に、桜島の二つの碑に及んだ。
「そんなみごとな銘を考えだしたのは、誰だろう?」と、戸板さん。
「林芙美子かもしれない」と、私。
「もとは外国じゃないのかな。そのラテン語さ」
「とすると、ポンペイあたりかな」
「なるほど、そうすると、それを烏島へもって来たのが智慧者ということになるな」
「案外、鹿児島の役人か何かが、外国の例にならって、機械的に処理したのかもしれない。とすると、智慧がなかったのが、かえって良かったことになりますね」
そんな話をしているうちに、ふと戸板さんは微笑をうかべて、「しかしその林芙美子の碑は……」と言った。それからちょっと溜息をつくようにして、「浮雲だね」とつけ加えた。
「そうですね」と反射的に私は答えたが、それまで胸にわだかまっていた一種の暗い思いは、いくらか、薄らいだようであった。「浮雲」の伊香保や鹿児島の町の描写を想いだした。
ああいう碑は、かえって林芙美子には、ふさわしいかもしれぬ。碑の前にあったひからびた花束は、どこかの文学少女がはるばる持って来たものかもしれないし、ことによると、古里の宿の女のひとりが手向けたのかもしれぬ。藝術家にとっては、碑もまた、浮雲のようなものかもしれない……
あの二つの碑は、今でもあのままであろうか。ちょっと行ってみたい気がする。
——一九四六年二月 潮——