一
どうかなる。そのうちには、どうかなってゆくだろう。
政職《まさもと》が時勢に恃《たの》んでいたのは、実にそれだけだった。けれど、どうにもならない日がついに来た。
ゆうべからまだ解決を見ない苦悩と困憊《こんぱい》のいろを、古池の腐水《ふすい》のように湛《たた》えたままでいるこの評定の間の人々にも、もちろん一半の責任はある事だった。いや主家の滅亡は自分たちの滅亡でもある。もう明日《あした》を恃んではいられない難関が個々一身の上にも蔽《おお》いかかって来たことはあらそえない。
問題は、
「この際、小寺家の向背《こうはい》をいかに決めるか」
であった。
二分して観《み》れば、
「この先も飽《あ》くまで毛利家《もうりけ》に組してゆくか。それとも織田信長の新しい勢力と結ぶがよいか」
の両論にわかれる。
そのほかにまだ、この期《ご》になっても、
「いずれとも態度を明らかにしないで、毛利家には旧来のごとく異心《いしん》のない体《てい》を示し、もし織田勢が攻め入って来たらその時はまたそれに応じた策をとればよい」
などという依然たる旧態《きゆうたい》の保守一点張りな老臣組もあったが、いかに時流にうとい政職《まさもと》の眼から観《み》てもそんな小策や糊塗《こと》では、もう到底、毛利家とて釈然《しやくぜん》たらざることは余りにも明確であった。
なぜならば、すでに一昨日から、その毛利輝元《もうりてるもと》の使者が、城下の一寺院に宿泊して、
「諾《だく》か。否か」
の返答を待ちうけている。諾ならば、あらためて芸州《げいしゆう》吉田城へ質子《ひとじち》を入れられよ、拒絶とあればそれもよし、二度と使者としてはこの播州《ばんしゆう》へ来ないであろうと、充分な威嚇《いかく》を口上《こうじよう》にもふくんで、輝元の書簡をも、同時に小寺政職の手へ呈してあった。
愕然《がくぜん》、色を失った政職は、いまはじまった問題のように、夜来、遽《にわか》に一族や主なる家臣をあつめて、
「どうしたらよいか?」
を人々に問うたのであった。諮問《しもん》をうけた面々もまた、軒《のき》に火がついたような困惑《こんわく》を顔色に燃やしながら、
「もし信長が中国ヘ軍を向けて来たら、まっ先に踏み潰《つぶ》されるのはこの辺の第一線である。しかも今川、武田をすら打ち破り、京都の幕府勢力まで駆逐《くちく》した彼。決して侮《あなど》ることはできない」
という者もあり、また、あたまから否定して、
「たとえ、織田の軍勢が、どれほど来ようと、毛利の勢力は、安芸《あき》周防《すおう》をはじめ、山陰山陽の十二ヵ国に亙《わた》っている。瀬戸内《せとうち》には、村上、来島《くるしま》一族の水軍も味方にひかえ、大坂の本願寺衆とはかたく結び、摂津《せつつ》そのほか所在の内応も少なくない。なんで元就《もとなり》公以来の固い地盤《じばん》が揺《ゆる》ぎでもするものか。——まして当城は旧来から毛利家の被官《ひかん》としてこの地方を領して来たお家柄でもある。なに迷うことがあろう。どんな質子でも誓紙《せいし》でも入れて、その代りに、ご助勢を仰げばよい」
これは明らかに、四囲の情勢を無視して、ただ毛利家の強大のみを頼りにする者の言葉だった。
この場合の危急が、その程度で切り抜けてゆかれるものなら政職とて元よりそうすることに異議はあるまい。けれど実際の情勢は決してそんな生《なま》やさしいものでも簡単なものでもなかった。それとその説を主張する一部の言は、余りにも、信長の勃興《ぼつこう》勢力というものを過小に観《み》ているきらいがある。
その証拠には織田軍の西下を、「かりに」とか、「たとえ来ても」とかいっているが、織田対毛利の衝突は、いまや必然的であり、しかもそれは、明日に迫っている空気なのだ。決して、
「もしや」といえるような生ぬるい情勢ではない。