「これ。小次郎——」と、ある折、忠平は、彼にむかって咎め出した。
「聞くところに依ると、そちは近頃、しばしば、公務を欠いて、幾夜も、館を空けるそうだの。——言語道断な」
嘘ではない。小次郎は、恐れ入って、額《ぬか》ずいてしまうだけだった。
「いったい、どこの誰と、江口へなど、通い始めたのか。遊びの物代《ものしろ》など、どこから出るのか。怪態《けたい》ではあるぞ。それを、明らさまに述べねば、捨ておかれぬ。……ありのままを申せ。ありのままを」
「申しまする。……が、大臣には、たれから、そんな事をお耳に入れ遊ばしましたか」
「左様なことは、訊かいでもいい。そちのいう事をいえ。そちの、身の明しを」
「実は……」と、小次郎は、嘘を考えたが、面倒くさくなってしまって、求められる通り、こういってしまった。
「後の月、初めて、江口へ誘われました。それは、親しい友が、伊予ノ国へ帰るので、送別のため、彼処《かしこ》の水亭に、集まったのでございます」
「なに。親しい友? ……そちに、どんな親しい友があるのか」
「はい。伊予の六位ノ掾、藤原純友です。また、紀秋茂や小野氏彦たちとも、滞京中、懇意になりました」
「えっ、あの、純友と」
これは、衝撃であったとみえ、忠平は、穴のあく程、小次郎を、見まもった。
小次郎は、心のうちで、なるほど、純友がいったのは、嘘ではないと、感心した。
純友は、小次郎が、主人にたいし、常に恟々《きようきよう》たるていを見て、いつか、その小心をあざ笑っていったことがある。
(こんど、何かあったら、おれの名をいってみろ。純友と、友達だといえば、あの忠平が、きっと、眼を白黒させて、以後は貴様にも、一目《いちもく》措《お》くに、ちがいないから——)
小次郎は、今、その言葉を思い出して、その言の適確さに、おかしさを、かくしきれなかった。彼のそうした容子が、忠平には、なお意味ありげに、取れたものか、
「よいほどに慎め。ほかの青侍共の、てまえもあるに」
と、うやむやに、叱りを収めてしまったが、以後何があっても、小次郎参れ——と、身近くへは、呼ばなくなった。
そのうちに、突然、彼は、小一条の館から、滝口の衛府《えふ》へ、勤め替えを、命じられた。
衛府は、禁門の兵の詰所である。
左衛門府、右衛門府に、各、六百人ずつの常備兵がいる。
ほかに、内庭《ないてい》に、近衛《このえ》。外門に、兵衛《ひようえ》の各兵部があった。
滝口にも、古くから、防人《さきもり》とか、健児《こんでい》などの、諸国の壮丁が詰めていた。御所内の滝口に兵舎があるので、滝口の衛士《えじ》とか、滝口の武者などという称呼が生れた。——小次郎も、ここへ来てから、滝口の小次郎と、呼ばれ出した。
暁起の点呼、午前午後の訓練や調馬など、さすがに、皇城内の兵部だけに、きびしさもきびしいし、第一、外出がやかましい。
六衛府の長官は、中納言で、衛門督《えもんのかみ》であり、その下に、金吾、大夫、尉《じよう》、帯刀《たちはき》などの諸官がいる。
「ははあ、おれを、封じ込めたな」
小次郎にも、忠平のこころは読めた。しかし小一条にいるよりは、はるかに、羽翼が伸ばされて、決して、不愉快な日々ではなかった。ただ、かなしいのは、ふたたび江口へ通う機会のなくなった事だけである。
休暇はあるが、わずか、一日に過ぎない。郷里のある者は、郷里へも帰れるが、それは三年に一度しか、賜暇《しか》されない規則である。
「今にして、やっと、わかった。小一条の大臣へ、おれの江口通いを、いいつけたのは、常平太貞盛にちがいない。……畜生、いやにおれを、目のかたきにしやがる」
彼が、こう覚ったのも、滝口へ移って後、偶然、左馬寮の門前で、彼とすれちがったので、はっと思いついたのである。
その時も、貞盛は、
「お。……」
と、遠くから、軽く、小次郎の会釈を、眼でうけたきりで、大容《おおよう》に行くてへ向いたまま、去ってしまった。
以後、禁門の内では、自然、貞盛と行き会うことも多かったが、貞盛はつねに、貴公子然と構えて、滝口の平武者《ひらむしや》などと、親しみのあることは、恥みたいな顔つきだった。