起き抜けに、彼は、広い館や柵門《さくもん》を、一巡した。たくさんな土倉ものぞいた。けれど、以前はそこに充ちていた稲もなく、武器もほとんど失われている。
あんなに多かった召使たちも、数えるほどしかいない。それも皆、ほかへ行き場のないような老朽や弱々しい病者ばかりである。
「蝦夷萩のような女奴もいない。……」
彼は、奴隷長屋の前の空壕《からぼり》をのぞいた。逃げる奴隷はいないので、そこは、芥捨《ごみす》て場になっている。
——冬の、崖《がけ》氷柱《つらら》の下に、ここへ墜《お》ちて死んだ蝦夷萩のことが、はっきり、少年の日の思い出の一齣《ひとこま》として、うかんでくる。忘れ得ない彼女の唇の熱さも想う。小次郎は、ぼんやりしていた。
「兄上。ここにおいででしたか。まだ、お眠りかと思っていました」
「おう、三郎か。よく寝たよ、ゆうべは。——ほかの、弟たちは、どうした?」
「今朝、早立ちして。——四郎は、石田の館《たち》の大叔父の許へ。五郎も、六郎も、ほかの叔父御の郷へ、それぞれ、手分けして、兄者人《あんじやひと》のお帰宅を、知らせに、旅立ちました」
「なんだ。放ッておけばいいに」
小次郎は、無意識にも、いやな顔いろが、出てしまった。
「おれの帰る日が、どうして、先に、分っていたのか」
「その叔父御たちから、報《し》らせがありました」
「うウむ……。じゃあ、おれが都を立つと、追っかけに、貞盛から親の国香へ、早文《はやぶみ》でも、出していたかな?」
「何か、知りませんが、日を報らせて来ました。そして、小次郎が戻ったら、すぐその旨を、届けに来いと、いいつけられていましたので」
「なに。届けろと。……まるで官庁みたいだな。近頃、叔父共は、ここへ見えるのか」
「ええ。大叔父は、余り参りませんが、良兼様と、良正様とは、こもごもに、よく来ます」
「じゃあ、おれの留守、おまえ達の世話は、その叔父二人が、見てくれたか」
「……いえ」と、つよく顔を横に振ると、三郎将頼は、肱《ひじ》を曲げて、涙の顔をかくした。
「三郎。何を泣く……。おれが、郷土を立つとき、いったじゃないか。おまえは、おれのいない後では、小さい兄弟中の、頭《かしら》だぞと。——あの頃はまだおまえも、十二、三の洟垂《はなた》らしだったが、もう、おれに次ぐ、いい若人。何を泣く。泣き面など、見せてくれるな」
「せっかく、お帰りになったばかりの兄上に、ベソは、お見せしまいと、きのうから、じっと、気を張りつめていたのです。——兄上っ。この館には、もう、父が遺してくれた遺産は何もありません」
「見たよ。稲倉《いなぐら》も、武器倉も、……が、たいがい、こんな事だろうとは、おれも都にいるうちから、察していた。意外とは思わない」
「私たちは、ここにいても、叔父御たちの、召使も同様でした。多少、物事が分ってからは、不平を抱かずにいられませんでしたが、いえば、言下《げんか》に——。(何を申す、汝《わい》らは一体、誰に育てられたと思う。幼少に親はなく、兄の小次郎もあの愚鈍、もしこの叔父たちがいなかったら、とうの昔に、豊田の郷も、この館も、他郡の土豪に攻め奪られ、汝らは、他家の奴僕に売られているか、命もあるか否か、知れたものではない。それを、無事成人してきたのは、誰の恩か——)と、手いたく、極めつけられては、黙って、涙をのんでしまうしか、なかったのです」
「ううム。……おまえたちには、恩を着せ、そして、おまえ達の為に、父が遺してくれた財物は、みな叔父共が、こそこそ運び去ったのだろう」
「ええ。この館は、空家同然です。もう何も残っていませぬ。兄上、私たちが、失ったのではありませんから、ゆるして下さい」
「ばか。たれが、おまえ達を、疑うものか。気の弱いやつ。泣くなもう……」
「は、はい」
「いいじゃないか、三郎。家財、調度、穀倉の穀、武器倉の武器が、みんな失くなろうと、ここに、おれが帰って来た。なお、父の代に、父が開拓した広大な田野や、血をもって、父が戦い守って来た相伝の土地は、小さい末弟たちに頒け与えても、余りある程な面積だ。気を取り直して、働けばいい。父の一代を、もいちど、おれたち自身が、父になって、やり直すことだ。……なあに、土さえあれば、何が、なくたって」
「ところが、その古くからの荘園も、新田《しんでん》も、兄上が十三年もお留守のまに、みな三家の叔父が、各《めいめい》、分けてしまいました」
「たれに? ……。たれの物に」
「叔父たちや、叔父たちの息子の物に」
「ば、ばかな」と、小次郎は、笑い出しそうに——しかし、ちょっと、不安な眉の翳りを見せながら、吐き出すように、自分へ否定した。「そんな事が、あるものじゃない、そんな事が。——家の後継《あとつぎ》のおれはいないし、おまえ達は、幼かったから、叔父共三家で、おれの帰るまで、預かっていてくれるのだよ。そういう約束になっているのだ。おれが帰って来たからには、当然、おれに返してよこすさ」
「けれど……。そうではないと、人が、いいます。みな、勿体ないことだ。ひどい横領事《おうりようごと》だと」
「それは、他人の妬《ねた》みだろう。何しろ、広大な田領だから、官へ租税を納めても、余る収入《みいり》は、莫大なものだからな。それは、十三年の間、叔父共が、おまえ達の養育料として、ふところへ、入れてはいたろうよ。……ああ、朝ッぱらから、つまらない話に落ちた。おれは、大結《おおゆう》へ行ってくるよ」
「大結ノ牧ですか」
「む、む。牧の馬どもにも、おれの帰って来た顔を、見せてやるのさ……」
「馬とても、以前のような、良い馬も、馬数も、今はおりません。老馬、廃馬が、わずかに残っているだけです」
「馬まで、持って行ってしまったのか」
「奴婢、奴僕まで、連れ去ってしまった程ですから」
「いいさ、土さえあれば。——とにかく、行って来るからな」
と、小次郎は、柵を出た。
故郷へ帰ったら、少年の日の多くを過ごした、あの牧の丘へ坐って、もう一ぺん、行く雲を眺め、那須、浅間、富士の三煙を遠望してみたい——と、それは、都にいた頃からの願いであった。憶いであった。