まだ、野も丘も、冬枯れのままだった。如月《きさらぎ》初めの風は、ひょうひょうと葦の穂に鳴り、夕方、こぼれるほど落ちた霰《あられ》が、野路にも、部落の屋根にも、月夜のような白さをきらめかせている。
——その日。伏見掾の家は、終日《ひねもす》、ひそやかだった。翁も弟子も、仕事についた様子もない。
夕餉《ゆうげ》の一刻《ひととき》には、親娘《おやこ》して、そっと、土器《かわらけ》で杯が酌みかわされ、桔梗の母なる媼《おうな》は、瞼をぬぐい通していた。
彼女は、化粧した。泣き腫れた顔を、幾たびも、鏡にむかって直した。
弟子たちは、裏表を、見張っている。
——やがて、遠く野の中で、松明《たいまつ》を振るのが見えた。
「……では」
と、にわかに、翁も媼も、家中して、ざわめいた。
「しずかに。……静かによ」
涙ながら、桔梗の姿を、土塀門の小さなくぐりから、送り出すのだった。桔梗は、うす紅梅、緑、白、紫と襟色を重ねた小袿《こうちぎ》を着、つややかな黒髪をうしろに下げていたが、親の家の門を、幾歩か、出ると、その黒髪も小袿の袖も、空へ舞いちぎられるように、赤城颪《あかぎおろ》しに吹かれていた。
すぐ、その辺に、身を伏せていたものだろう。さっと、木蔭や草むらから、十人余りの人影が立ち、桔梗のそばへ近づいた。
さすがに、桔梗が、ア——と、かろい声を流した。ともう、彼女は、馬の背に、押しあげられ、鞍《くら》に、布でくくられ、東の方へ、駈け去った。
それを、遥かで待っている者の合図らしく、さっき見えた松明が、またしきりに、野面《のづら》のうえで、うごいていた。——見ようによっては、野霜の翁と媼へ、何かを、焔で語っているともうけ取れる。
媼と翁は、家のうちへ戻ると、おたがいに、老いの涙のとめどなさを、慰めあった。
「ああ、寂しい。手のうちの珠《たま》を失うたような。……けれど、むすめの望みが、かのうたのだ。かなしいような嫁入りではあるが、桔梗の身になって、歓んでやれ。桔梗の心は、もう、豊田へ行っているであろ。いや、遥か野面に見えた松明は、聟殿《むこどの》がみずから振っていた炬《ひ》かもしれぬ」
夜もすがら、この老夫婦は、桔梗が生まれた時から、きょうまでの想い出を、いくら話しても話しつきないように、語りあっては、泣き沈んでいた。次の日も、この具足師のやしきは、夜のように、ひそまり返っていた。
弟子たちは、部落の同職の人々へすら、
「桔梗さまが、きのうの夕方から、行方知れずにおなりなされた」
と、事実を隠していた。そして、
「平泉の人買いに、誘拐《かどわ》かされたか、野盗の群れに、攫われたやら」
と、わざと大仰に吹聴した。
こういう例はないではない。陸奥の俘囚(半蝦夷領)の勢力地へ行くと、美しい女が高価に売買されるという。また、はるばる都から美女を輸入してゆく人買いはよく北の方へ通って行く。
現に、数年前には、羽鳥の良兼の局にかこわれていた——あんな堅固な館のうちの女人すら、忽然と、姿が見えなくなってしまった実例さえある。
しかもこれは、国司の庁や、郡司の役所へ訴えても、どうしようもない事だった。あの羽鳥の良兼の勢力を以てさえ、ついに、愛妾の玉虫は、あれきり、どこへ行ったか、分らず仕舞いである。一時は、将門が隠したのだと、もっぱら嫌疑をかけて、探りを入れたが、真実、豊田にも、どこにもいないと分って、ようやく、ここ一、二年前に、噂もなくなっていたところだった。