貞盛の帰洛の別宴とはなっているが、兼ねては彼が右馬允に昇官した披露目の意味もあろう。夜に入るまでの盛宴だった。
主賓の源護は、老齢なので、ちょっと顔は見せたが、輿《こし》に乗って、明るいうちに帰った。一族のほとんども、それぞれ頃をはかって散った。——残ったのは、良兼、良正、それにすこし遅れて来た護の子息の扶、隆、繁の五人だった。
広間の燭を、一隅に縮めて、国香を中心、内輪だけがなお夜を飲み更かしているのは、話題が、将門の事になったからである。
「きょうは、この兄の嘆きも聞いてやって下さい」と、弟の隆は、自分の横恋慕は棚に上げて——
「長年、恋していた女を、兄は、将門に奪われて、悲嘆やる方なし……というこの頃なのです。うんと飲ませて、元気をつけていただかないと、恋死ぬかも知れません」
などと酔いにまかせていった。
貞盛は、かえって、揶揄《からか》い半分に、
「そうか、扶どの。——道理で浮かぬ顔よ。したが、失恋は、酒では癒《い》えぬし……医師《くすし》も匙《さじ》を投げように」
と、おかしがった。
けれど良正、良兼たちは、わざと深刻な表情を持して笑わなかった。その事は、数日前から聞いていたし、相手が、将門と聞いて、われらも共に、恥辱を感じていたところだ——と、焚《た》きつけた。将門ずれに、見返されては、あなたの男も立つまいが、われらとて、捨ておかれない。無念である。じつに忌々《いまいま》しい限りだ、と、若年でもない二人の年配者にしてさえ、怒りやまずいうのだった。
その間、国香も、むずかしい顔して、疎髯《そぜん》を指でまさぐりながら、チロ、チロと兄弟たちの顔を見たり、良正の煽動的な語気へ、大きく頷いてみせたりしていた。
それでなくても、鬱憤にくるまれていた、扶、隆の血気は、わけもなく誘い出された。そして、激越な語気のもとに日頃の大胆な考えを口にし出した。
「もとより、このまま、私たちも引っこんではいない。どうしたら将門を、必殺の地へ、おびき出せるか——と、じつはその謀《はかり》をこの間じゅうから考えているのです。何か、よい策があったら、お智恵をかして下さい」
酔いを蒼白なものに沈めて訴えるのである。その若気《わかげ》を、ひとまずは宥《なだ》めながら、実は、不抜な意志にかためさせているような言葉が、国香や良兼たちの老巧な態度に見られる。
貞盛も、さきに自分の手でやり得なかった事が、扶や隆の手で行われれば、これに越したことはないと思った。それも、それをやる者の如何《いかん》にもよるが、常陸源氏の嫡子や二男三男らが手を下すならば、周囲や近国でも、その成敗《せいばい》に、苦情をいい出す者はあるまい。国司ノ庁などは、どうにでも動く。——また、中央の聞えは、自分が、都へ帰った上、先手を打って、予備工作にかかればよい。
貞盛も、そんな意見を出した。知性的な態度の彼からそういわれると、扶たちは、自己の考えに、なお確信をもった。殊に、中央の工作を、貞盛が受け持ってくれるとあれば、——と、それも大きな力とした。
とにかく、その夜、一つの密謀が、かためられた事は、確かである。——久しく都にいて、めったに帰省しない貞盛が、居合せたことも、後に思えば、宿命的であった。
その貞盛は、やがて、都へ帰った。
三月から四月への、坂東一帯の春の野の麗《うらら》かさは言語に絶える。自然美の極致を、際涯《さいがい》なき曠野の十方に展《ひら》くのである。
将門は、そうした自然に身まで染まって、相変らず、家人奴僕を督励して、働いていた。
わけて、恋人を妻として、館の一棟に、その桔梗の前と、蜜のような楽しい新家庭を奏《かな》でてからは、なおよく働き、よい良人になろうとしていた。
すると、五月の初旬《はじめ》。月が更《か》わるとすぐの日である。
石田の大叔父、大掾国香から、いんぎんな使者が来た。そして、将門宛に、書面があった。
披《ひら》いて見ると、将門の父良持の法要を営みたいという招き状。
「あ。……もう亡父《ち ち》の十七年忌か」
彼はふと、茫として、遠い回顧にとらわれた。
——日は、五月四日。場所は、新治郡の大宝寺。
一族相寄って、良持どのの法要を営み申したい。ほかならぬ故人のこと、其許《そこもと》にも、旧事近情は水に流して、ぜひ御臨席ありたい。
という意味の文章である。
「……参ります。何は措《お》いても」
つい眼に涙が溜った。返事をしたため、また、使者へ口でもことづけた。