どうしたのか、貞盛は、いっこうに、積極的でない。
水守の六郎良正は、業《ごう》をにやして、
「だめだ、都人《みやこびと》の風《ふう》に染《し》みたやつは。ひとりの甥など、恃《たの》みにすることはない。よし、おれひとりでも、果してみせる」
と、こんどは、独力、豊田攻めを計って、ひそかに、部下に、鏃《やじり》を研《と》がせていた。
夏もすぎ、承平五年の十月二十一日である。
水守を出た千人ぢかい軽兵と騎馬隊が、豊田へ向って行った。
将門の方でも、つねに物見を配っていたので、すぐこれを知った。
「郷を焼かすな」
と、将門は、新治まで、駈け出して、陣をした。
六郎良正は、これを見て、
「叔父ごろしの将門を討て」
鼓《こ》を鳴らして、味方に、下知した。
将門は、怯《ひる》むいろもなく、矢かぜの中に、一馬をたてて、
「ばかをいえ。国香をころしたのは、汝らだ。おれが手にかけて討ったのではない」
と、いい返した。
こんな場合でも、将門は、何か、自分の正しさを、大勢に、いい開きをたてたいような気もちが捨てられないのであった。その愚鈍を、嘲《あざけ》り笑いながら、良正は、
「おう、いつまで、そうして立っておれ」
と、自分も、弦《つる》を張って、彼を的《まと》に、一矢、引きしぼった。
「くそっ、そんなヘロヘロ矢にあたってたまるかっ」
将門は、長柄を横に持って、馬をとばして来た。矢が、彼の体から撥《は》ね、良正との距離が、一気に、迫った。
良正は、あわてて、味方の中へ逃げこんだ。
この日の合戦も、ついに、水守勢の総くずれに終り、いたずらに、豊田の将門一党に、再度の誇りを持たせてしまった。
良正は、さんざんな目を見て、水守のやしきへ帰ると、すぐ筑波の兄良兼の所へ行って、うらみをいった。
「ちと、おひどいではありませんか」
「なぜ。何を、いうのか」
「元々《もともと》、将門をかたづけようという計は、お互いの密契《みつけい》でしょう。私ひとりに、かくまで、苦心させて、さきに書状もあげてあるのに、一兵も加勢を出し下さらぬとは」
「その事か。……いや実は、なにも、将門を怖れてではないが、わしには、すこし腑におちぬ事があるので、この羽鳥の砦《とりで》を、めったに留守にしかねているのだ」
「——と、仰《お》っしゃるのは?」
「例の貞盛の行動だが」
「なるほど。不審です。いや、不満です、私も」
「父の国香を討たれているのだ。誰よりも、将門を怒り、まっ先に、義を唱えて、起たねばならないはずの貞盛がよ……」
「ひとつ、御同伴して、彼の真意を叩いてみようではありませんか。私も、内心大いに、あきたらなく思っているところなんで」
二人は、数日の後、つれだって、右馬允貞盛を訪い、その冷静さを詰問した。
貞盛の答えるところは、こうだった。
「……どうも郷里の風聞は、ひとつも、われわれに、いい事はない。たれに糺《ただ》しても、将門に、同情します。これでは、いくら老父の死を見ても、自分には、勇気が出てまいりません。悪謀の失敗から、将門を恨むのは、逆恨みだと、露骨にいっている者さえある。……老父国香の死も、これでは、自ら求めた災難とあきらめるしかないかと、そろそろ都へ還《かえ》る準備をしているところでした」
良正、良兼は、そう聞いて、愕然とした。これでは、味方の内から、切り崩しが出たようなものである。喧嘩すれば、また同士討ちだ。そこで、二人は、口を酢くして、その非を説いた。
「何しろお許は、都にいて、常日頃の郷土の実情を知らないからだ。それらの事は、みな将門がいわせている豊田方の流言にすぎない。つまりお許からして、敵の流言の策に乗っている。つい、この間までは、こうまででもなかったが、ひとたび、将門が、勝ち誇って、将門方が強いとみたので、急に、百姓共までが、そんな事をいい出したのだ。……かつはまた、右馬允貞盛ともある歴乎《れつき》とした嫡男がありながら、父を討たれて、平然と、見過していたりして、お許は、どの顔さげて、以後、郷国の領民にまみえるつもりか」
老獪な叔父二人は、かわるがわる、虚実をまぜて、力説した。責めたり、すかしたりである。貞盛も、ついには、そうかと思い直して、あらためて、将門征伐の加担を約した。
しかし、賜暇の日限もせまったし、また、政治的に、中央において先手を打っておく工作も、大いに必要なので、ひとまず、彼はまた、京都へひっ返す事になった。
こうして、その年は暮れ、翌、承平六年の夏である。
良正、良兼の兵力にあわせて、さらに石田の貞盛の家人や、常陸源氏をも加えた数千の軍隊が、焼きつくような夏野をわけて、三たび、将門を襲った。——初めの、叔父甥喧嘩から思うと、じつに、思いもよらぬ本格的な戦争状態になったものというしかない。
野火は狂う。
狂いだした火は果てもなくひろまってゆく。
四隣の噂もようやくこの戦闘にもちきって、一波は万波、あっちも、こっちも、物騒な動揺が兆《きざ》し始めた。
——と。その頃、赤城《あかぎ》山の裾から遠くない阿蘇《あそ》ノ庄《しよう》田沼に、東山道《とうさんどう》の駅路《うまやじ》を扼して、館《たち》、砦《とりで》をかまえ、はるかに、坂東の野にあがる戦塵を、冷ややかに見ていた老土豪がある。
この地方の押領使《おうりようし》、田原藤太秀郷《たわらのとうだひでさと》である。