貞盛は、歓待された。彼の考えにある外交的な意図からも、この訪問は、充分に効果があった。
秀郷もまた、この客をとらえて、多分に、自己勢力の拡充に、利用するのを忘れていない。夜は特に、宴をひらいて、貞盛をねぎらい、老熟した人あつかいのうちに、貞盛の肚を見抜いて、
「何なりと、また御相談にみえるがよい」
と、力づけた。そしてなお、
「苦労負けして、おからだを、こわし召さるなよ。国香殿のない後は、なおさら大事な、あなただ」
と、いたわったりして、貞盛を涙ぐませた。と思うとまた杯を向けては、豪放に気を変えて、その健闘を励ましたりした。
けれど、秀郷は、将門個人については、悪くも良くもいわなかった。貞盛などより、はるかに年上の彼である。将門の父良持がまだ生きていた時代からの常総地方の事情も、各家の勢力分布のいきさつに就いても、貞盛以上、古い事実と、土と人の歴史を知っているのだった。がしかし、この老獪は、知っている風も余り顔には出さなかった。
その辺が、何となく物足らない気がしたのであろう。貞盛は、意識的に、彼が、将門をどう考えているか、ひき出そうと試みた。
「秀郷様。あなたは、将門という人間と、お会いになったことがおありですか」
「いや。将門には、訪ねられたこともなし、会ったこともない」
「むかし、もう十三、四年前になりましょうか。たった一度、おありでしたな」
「どこで」
「都の右大臣家のお壺で」
「……あ。そうか」
思い出した顔つきである。しかし、その頃の小次郎将門の姿よりも、秀郷には、べつな事が思い出された。
あれは延長元年、秀郷は、まだ三十台だった。国司の下の役人と、大喧嘩を起し、国庁を焼いたり、吏員を殺傷し、流罪《るざい》に科せられ、一族十八人、珠数《じゆず》つなぎに、配所へ送られたことがある。
百方、運動の手を廻し、時の右大臣忠平《ただひら》にも、莫大な贈り物をしたりして、三年で赦免《しやめん》になった。その礼に、上洛したのである。——その時、彼から贈った名馬を、忠平が、小壺のさきへ、曳かせてみた。壺のさきへ、口輪をとって出てきたのが、坂東平氏良持の子、小次郎将門だと、その時、忠平から聞かされたことがある。
あとにも先にも、秀郷が、将門を見たのは、その時かぎりである。今は遠いむかしである。近頃、頻々《ひんぴん》と将門のうわさを耳にしても、思い出せないほど、記憶はうすくなっていた。
「——左大臣家へ、参られたら、忠平公へ、よろしくお伝え申しあげてくれい。春秋の実《みの》り物や、四時のお便りは欠かしていないが」
秀郷はすぐ話をそらした。自分が、前科者だったような記憶にはふれたくないのだ。貞盛も、さとって、
「帰洛の上は、さっそくにも、参上するつもりです。ほかに、御書面でもあるなら、持参して、お取次ぎいたしましょう」
と、いった。
翌日、貞盛が、田沼を立つさいには、秀郷は、屈強な侍を三名、彼の供に加えさせて、
「何しろ、碓氷越えは物騒です。佐久《さく》あたりまで、お連れください」
と、館の外まで出て、見送った。
貞盛は、やがて、都へ着いた。
彼は、ただちに、太政官に出向いて、護や叔父たちの訴文を提出し、
「よろしく、朝集《ちようしゆう》にかけて、諸卿の議判を仰ぎ奉ります」
と、なお自分からも、べつに詳細な一文を認めて、出しておいた。
が、それだけではと、彼は、知るかぎりの高貴や大官を訪ねて、将門の非をいいふらして歩いた。
貞盛が、若年から愛顧《あいこ》をうけている仁和寺の式部卿宮《しきぶきようのみや》の許へも伺った。また、弟の繁盛が仕えている忠平の子息九条師輔《もろすけ》にも会って、話しこんだ。
もちろん、その九条殿の父君であり、またかつては、小次郎将門が仕えていた左大臣家——宮中第一座の顕職にある藤原忠平の私邸を訪うことは怠るはずもない。
ところが、どうも行く先々では、彼の訴えを、たれも余り熱心に耳をかたむけて、聞いてくれなかった。
「ほう。ほほ……?」と、都人らしい、いつもながらの、外国事《とつくにごと》でも聞くように、のどかな眼を、すこしばかり大きくするだけだった。
「時もわるい」
と、貞盛はさとった。——というのは、あいにく、この夏頃からまた、南海に剽盗《ひようとう》が蜂起し、騒乱の被害地は、伊予、讃岐、また瀬戸内の各地にわたり、朝議でも、捨ておきがたしとなって、伊予守紀淑人の訴文を容れ、官船十数隻に、兵を満載して、海賊討伐にさしむけ、太政官も各省でも、その事でもちきっているところである。
それでなくても、都人の距離感と、また生活関心は、未開土の東国などよりは、難波津《なにわづ》から瀬戸の海につづく南海方面のほうが、はるかに、身ぢかなものだった。
秋になった。
なおまだ訴文にたいする沙汰はない。
この秋、藤原忠平は、摂政をかねて、太政大臣に叙《じよ》せられた。
一しきりは、その昇任の祝賀やら何やらで、また、公卿たちの車馬は管絃や賀宴の式事にばかり往来し、南海の賊乱さえ、都の表情には、影も見られなかった。
「もし、このまま、放っておかれたら、東国の乱もまた、どんな大事にいたるやもしれません。坂東の諸地方には摂関家の荘園、官田《かんでん》もたくさんあることですし、かたがた、陸奥にはまだ、中央の令に服さぬ俘囚《ふしゆう》の族も、強力な軍備と富力をもって、虎視たんたんと、御政治の紊《みだ》れをうかがっております。国家のため、貞盛は、憂いにたえません」
師輔を説くこと、幾度かしれない。忠平へは再度の上訴もした。なお、さまざまな彼の運動が、ついにものをいったか、その年も十月になって、やっと、
——下総《シモフサ》御厨《ミクリヤ》ノ下司《ゲス》、平将門。兇乱ヲナシ、謀叛《ムホン》ノ状、明カナリ。使《シ》ヲ派シテ、コレヲ捕ヘ、ヨロシク朝ノ法廷ニ於テ、指弾《シダン》、問責《モンセキ》アルベキ也。
という公卿詮議《せんぎ》の議定が、公示された。
ただちに、下総の将門へ、召喚状が発せられ、将門は、官符をうけると、まもなく、東国から馳せのぼって来た。そして太政官に、着到をとどけ、しばらく、彼は街の旅舎に泊っていた。
彼にとっては、二度めの上京であり、六年ぶりに見る平安の都であった。