不死人と、初めて会った時から、彼はすでに大人であったが、以後全く成長もない。幾年たっても、会えばすぐ遊蕩《ゆうとう》を考える。ほかに能はないかのように見える男である。
しかし、まがりなりにも、将門は、成長している。内容の変化もある。どうも、この男とは、これ以上、つきあいきれない気もするのだった。
そのくせ、彼はやはり、拒みきれず、不死人について、洛内の遊女宿へ、はいって行った。
酒の座になると、不死人は、一だん不死人らしく、冴えてきて、
「まず、君の訴訟の勝ちを祝そう」
と、いい、杯を、眼の高さに上げた。
「え。知っているのか。貞盛との、訴訟のことを。いやそれは、豊田の留守の者に聞いたろうが——おれが勝った事を、一体、たれに聞いたのか」
「おいおい、将門。おぬしは、自分の力で勝ったつもりでいるのか。こんどの訴訟を」
「正しい者は、ついに勝つさ」
「あははは。アハハハ」不死人はいよいよ笑って——「まあ、いい。まアいい」と、ひとりして、頷いた。
「何が、まあいいのだ」
「余り、滑稽だからだ。いつまでたっても、君は、大人にならない。天然の童子だ」
「おかしな事をいうじゃないか」
「じゃあ、実を明かすが。——貞盛が訴えたと聞いたから、これはいかん、貴様の負けと決まっている。悪くすると、死罪かもしれない。おれは、そう直感した。——おぬしの豊田を訪ねたが、急いで、あとを追うように、上洛して来たのもそのためだ」
「そして」
「貴様は知るまいが、おれは、陸奥から持って来た砂金《か ね》の大半を、その為に、費《つか》ってしまった。刑部省、靫負庁の主なる役どころの公卿や、殿上の参議たちに、手を廻して、裏口から贈っておいた。——貴様の勝ちは、その効き目だよ。うそだと思うなら、いまに分る。まあ、飲むがいい。飲んでいれば、いまに分る」
いっているところへ、
「やあ、不死人。もう始めたのか」
ひょっこり、一名の公卿がはいって来た。どこかで、見たような公卿だがと、将門は、小首をかしげた。そして、やがて杯を交わし始めてから、愕然とした。
それは、靫負庁の法官のひとりだ。たしかに、自分の裁きに立った公卿の一名にちがいない。
「いま、仔細を、将門に打ち明けているところだが、この男、どうしても、おれのいうことを、真実と思わないのだ。あんたからも、話してやってくれ」
不死人は、突っ放すようにいって笑った。そして、交情蜜のごとく、その公卿と、酒を酌みあい、そして、裏面にとってくれた公卿の労を、謝しているふうであった。
やがてなお、三人、四人と、公卿たちが、寄って来た。彼らは、不死人の前では、拝跪《はいき》するばかり、卑屈だった。みな砂金の分け前にあずかっている者共であることをいわずして自白していた。
「こういう、馬鹿正直な男ですからな、将門とは」
面とむかって、不死人はいった。まるで、将門の迂愚《うぐ》を、皆が、酒のさかなにして、飲んでいるような光景であった。
夜が更けると、彼らはそれぞれ遊女を抱いて、ほかの寝屋へかくれた。泊ってゆけと、しきりにいうのを、断って、将門は、旅舎へ帰って、独りで寝た。
「なるほど、おれは、ばかだった」
将門は、自分の愚を、今はみとめていた。
官府の腐敗も、大宮人の貧しい裏面も、都会のどんなものかという事も、かつて、長い遊学中に、ずいぶん、知っていたはずなのに、もうそれを、忘れはてて、正しいものは必ず勝つと、信じていたほどなばかであった事を、自ら覚《さと》らずにいられなかった。
「——今朝は、立つのか」
不死人は、早朝にやって来て、彼の帰国を見送った。そして、別れ際に、これだけは、声を、ひそめて、真面目にいった。
「南海の藤原純友が、いよいよ、暴れはじめた。官庫の財政も、出費で、火の車だ。討伐の官兵たちは、いくら増派されても、鎮《しず》まるまい。——ところで、将門、御辺の方も、そろそろ、時機だぞ」
「時機とは」
「まだあんな事をいっている……」と、あきれ顔に「純友との約を果たすことだ。呼応して、兵を、東北の地と、南海で挙げることだ」
「おれにそんな力はない。叡山の約束なら、あれはもう反古《ほご》にしてくれ」
「そうはなるまい。天下の大事を約しておいて」
「身内の喧嘩にさえ、精いっぱいだ。天下に、何を野望しよう。おれは、くたびれた。ただ、国へ帰って、平和な燭のそばで、妻の顔が見たい」
将門は、馬上になって、それきり振り返らなかった。三人の従者をつれ、蹴上《けあげ》へさして、駒を早めた。不死人はなお、逢坂口までついて来て、
「いずれ、純友に会ってから、秋ごろにはまた、東国へ下ってゆく。なお、ゆるりと、そのとき話そう」と、告げて別れた。
家郷を離れてから、いつか半年はたった。以前の帰国とちがって、こんどは、はっきり、豊田の家には、自分を待っていてくれる妻がある。壮気、孤独の頃、ふと藤原純友と会って、血のけの多いことを語りあった頃と今とは、まったく、心のありかたが、違っていた。
まして、訴訟にも勝った。その訴訟が、後には、自分の正義によって剋ちとったものでなかったのを知ったのは、淋しいことだし、何だか、心の負担にたえないが、しかし、勝ったことは、事実である。間違いはない。
新緑の豊田の館では、もう先に、彼の便りで知っていたので、彼がここに着く日には、一族郎従が出揃って、門に、凱旋の主を待っていた。
桔梗は、産屋《うぶや》を離れたばかりであった。でもその日は、化粧を新たにして、母となった腕《かいな》に、珠のような男の子を抱いて、旅の夫《つま》を、中門のほとりで待ち迎えた。