八月。
爽涼《そうりよう》な秋が訪れはじめたある日の早暁である。
将門の弟——去年、分家して、葦原《あしわら》に一邸を持っていた大葦原四郎将平は、
「兄者人っ。ただ事ではない」
と、馬を飛ばして、豊田へ報らせに来た。
「なんだ、あわただしく」
その朝も、将門は、乳児のにおいのする妻の部屋にいた。外の小鳥の音と、桔梗の明るい声が、いつもの朝のように、良人の笑顔をつつみ、これから近くの領下へ検見《けみ》に出かけようという供揃いを、門外に待たせたまま、時を忘れていたのである。
「ゆうべ晩《おそ》く、筑波の者が、門を叩いて、告げに来てくれたのです。——羽鳥の良兼が、山に兵を集めて、水守の良正の方と、さかんに、早馬を交《か》わして何か目企《もくろ》んでいる様子だと」
「また、叔父共のカラ騒ぎか。頼みもせぬのに、わざわざ、何だかだと、報らせて来るのもいるから困るな」
「困ることはありません。お館《やかた》を大事に思い、兄者人に、好意を寄せていればこそ……」
「が、なあ四郎。おれはもう、いつまで、叔父《お じ》甥《おい》同士で、浅ましい血みどろ喧嘩はしたくないんだ」
「それは、私たちでも、同様ですが、叔父たちは、今でも、豊田のわれら兄弟を、あくまで敵として、やじりを研《と》いでいるのだから仕方がありません」
「相手にするな。どう悪声を放とうと、企《たく》もうと」
「充分、こっちは避けています。しかし、羽鳥や水守の衆は、この半年、いよいよ武器馬具を集めて、戦備に怠りなく、しかも、太政官の訴訟では、自分等の方が、正しく勝ったと、いい触れています」
「何といおうが、おれの手には、おれの勝訴となった文書《もんじよ》がある。そして、羽鳥や水守の叔父達へは、わが家の正当な遺産である田領の地券を、ただちに、将門に返還せよという官の通達が届いているはずだ」
「そんな物は、彼らにとって、何の威令でもありません。——むしろ、そこまで、追いつめられたので、なおさら、策謀と武力に、邪心を集注し、一挙に、豊田を破って、中央の敗訴を、うやむやにしてしまおうという肚なんです。それに極まっています」
「……ま、待てよ。四郎」
将門は、弟の憤激がやまないので、口を抑えるように、ふと、語気を変えた。
そばにいて、息をつめながら聞いている妻の顔に、はっと、聞かせたくない思いをつきあげられたからである。
「おれは、出かけるところだ。郎党たちも、馬をすえて待っている。話は、あっちで聞こうよ。道々、駒を並べて聞いてもよい」
桔梗の顔は、もうまっ蒼になっている。母の恐怖はすぐ乳腺にひびいて、抱かれている子までが、乳の味にそれを知るのである。急に、彼女のふところでムズカリ始めた。——四郎将平の胸はこの朝、早鐘をついている思いだったが、兄の気もち、あによめの心を覚《さと》って、
「あ。そうでしたか。では、ともかくその辺まで、ご一緒に出かけましょう」
と、さりげなく、桔梗の部屋を先に出た。
将門、将平のふたりが、館の表の、家人部屋《けにんべや》の廊のあたりまで出て来ると、もうそこらの家僕や女たちの跫音が、いつものようでなかった。
「何を騒いでいるのか」
将門が、郎党のひとりを、叱ると、
「いえ、郷の者が、騒ぐので。そして、それを聞いた女奴や下僕どもが、あらぬ事を、口走るものですから」
「あらぬ事とは?」
「今朝、豊田を通ってゆく旅人が——豊田は何と暢《の》んびりしておるわい。今にも、常陸勢や筑波勢が、こっちへ来るのも知らぬ気《げ》に——と、あきれ顔に、この辺を、笑って通ったとか申します」
四郎将平は、それを聞くと、
「それ、ごらんなさい。旅人や百姓まで、もう聞き伝えているでしょう。——察するところ、羽鳥の叔父は、昨夜のうちに、筑波を発し、水守の兵を合せて、この豊田へさして急いでいるにちがいない」
「いやだなあ、売り喧嘩か」
「兄者人! 備えてください」
「四郎」
「はいっ」
「何とか、交《か》わす法はないか。戦わずに」
「ば、ばかな事を仰っしゃって。——それなら、豊田を捨てて逃げるしかありません」
「逃げもしたいが」
「冗談じゃありません。あなたを、豊田の主《あるじ》とも、土地の親柱とも頼んで、ここへ眷族《けんぞく》をつれて寄り合った多くの者、また、たくさんな郷の者を、どうにもなれと、振り捨てて、逃げられますか」
そこへ、守谷に住んでいる御厨《みくりや》三郎将頼も、馬にムチを打って、駈けつけて来た。
将頼は、下の弟の四郎将平よりは、気もやさしく、兄の将門よりも、めったに、激さない性《たち》である。——が、その将頼すら、もう武装して、矢を負い、弓をひっ抱えていた。
「良兼を大将に、二千以上の大兵が、子飼の渡しをさして、続々と、向かって来るそうです。——良兼、良正たちは、去年の敗れに懲りて、このたびこそと、軍備作戦をねっているとかいう事は、夙《はや》くから聞えていましたが——やはり本当だったとみえます」
三郎将頼は、息をはずませて、いった後、
「もし、子飼の渡しを、彼らに断たれると、こちらは、豊田一郡に、追いつめられ、戦うに、不利となります。兄者人、すぐ駈け向ってください。一刻を、争いましょうぞ」
「……ちいっ。ぜひもない」
将門も、肚をきめた。
しかし、彼の命令を待つまでもなく、あたりにいた郎党は、館、柵内の味方へむかって、事態をどなり歩いていたので、馬を曳き出し、武器を押っとり、前後して、甲冑の奔流《ほんりゆう》が、諸門から往来へ、溢れ出ていた。
将門も、大急ぎで、具足を身に着けた。その間とて、彼の心のどこかでは、
(いやだなあ、血みどろは、見たくないが……)
と、しきりに疼《うず》く弱気があった。妻の白い顔や、乳のみ子が、眼にあって、いつになく、鎧の重さが、身にこたえた。
その間に、五郎将文、六郎将武なども、大結ノ牧や、附近の邸から、駈けあわせ、またたくまに七、八百騎。
「子飼の渡し口へゆけ」
「子飼を守れ」
と、まっ黒に、駈け出した。
後から後から、なお駈け続く兵も多い。曠野の兵は、その頃まだ、みな「半農半武」か、「半農半猟」か、とにかく、館の郎党から散在している地侍にいたるまで、純然たる武士という者は一般にごく少なかったようである。「今昔物語」などには、“合戦ヲモツテ、業トナス——”人種のようには書いてあるが、匪賊《ひぞく》のように、それのみが目的ではない。武門といえど、荘園や開墾や、土の経済の上に、立っていた。それだけにまた、土の争奪には、血を惜しまず、骨肉の相剋も、辞さなかったわけでもある。
こういう兵団。こういう原始的な武力。——従ってまだ軍律や、秩序ある陣法もなく、ただ極めて幼稚な作戦知識と、大ざっぱな階級別とがあるだけだった。
とはいえ、蛮夫《ばんぷ》の勇に近い敢闘精神と、野性そのものの血は、もうすでに「坂東《ばんどう》猛者《も さ》」と天下に著名なほど旺《さか》んであった。この自然下にあった特性が、史上、将門がよび起したものといわれて来たいわゆる“天慶《てんぎよう》ノ乱《らん》”なるものを、ひどく凄惨なものにしたに違いないことは、疑いの余地もない。