「どっちを見ても火だ。火ばかりだ。弟。豊田の館の運命も、今日が終りとみえる」
敵の攻勢がゆるむと、かえって、将門も気がゆるむ様子だった。路傍の木蔭へ、流れ矢を避け、さも、疲れきったように、馬の背で吐息《といき》をついた。
「兄者人。頑張ってください。いつもの兄者人らしくもない」
弟の五郎将文《まさぶみ》は、兄の無気力に、苛々《いらいら》していった。具足の腰に付けていた革の水筒を解いて、馬上から馬上へ、
「水がありますが、ひと口、水をおあがりになりませんか」と、手渡した。
「あ、ありがたい」
将門は、ごく、ごく、と喉《のど》を伸ばして飲みくだした。ほっと太息をつく。そして、その雫《しずく》や顔じゅうの汗を、鎧下着《よろいしたぎ》の袖で横にこすった。
「将文。——三郎や四郎たちは、どうしたか。姿も見えなくなったが」
「ほかの兄達は、奮戦して、鎌庭《かまにわ》の外へと、敵を退けています。もう、御安心なさいまし」
「いや、敵は新手《あらて》を持っている。ここまで、攻め入られては」
「どうして、今日に限って、そんな弱音《よわね》をおふきになるんです。兄者人からして、お気を挫いたんでは、士気はどうなりましょう」
「だが、見ろ。父からの館も、門前町も、御厨《みくりや》の建物も、みな火や煙にくるまれている。退《ひ》いては襲《よ》せ、退いては襲せて来る敵に、こう防ぎ疲れてしまっては……」
「どこか、お体でも、お悪いのですか」
「なに。体?」
「お顔が、常の二倍にも、膨《ふく》れています。いま、気がつきましたが」
「そうか。……いや、おれは、何ともないぞ。体は、常の通りだよ」
いわれるまでもなく、将門は自覚していた。自分の顔を撫でても、まったく知覚がなく、全身は重く、勇気の欠如が、われながら、もどかしかった。しかし、病気のことだけは、まだ、弟たちには秘して、今も、さあらぬ態を持つのだった。
一方。御厨三郎将頼、大葦原四郎将平、そのほか六郎将武などの弟たちは、さんざんに戦って、敵を、ともかく遠くまで撃退したので、
「長追いは」
と、いましめ合い、
「兄者人のお身の上こそ、案ぜられる」
と、戦線をさげて、将門の姿を、あちこち求めて来た。
そして、ここに長兄の無事を見て、よろこび合ったのも、つかの間、敵はまた、潮《しお》の返すように、新手を立てて、襲せて来た。
「ここは、われらして、防ぎます。兄者人は、館にある味方を励まして下さい。館へ籠って、女子供らを、お守りください」
弟たちのすすめに従って、将門は郎党二、三十騎をつれて、さいごの砦《とりで》と恃《たの》む豊田の本邸へひっ返した。
しかし、東西の柵門から、母家下屋まで、火の手は大きく廻っている。家人や奴婢長屋の男女まで、総がかりで消火に努めているものの何の防ぎになろうとも見えない。ただ幸いな事は、火は、飛び火によるものらしく、敵勢の影は、まだここまでは侵入していなかった。
「桔梗っ。……桔梗はどうした。桔梗よっ……」
将門は、広い柵内を、走り廻り、走り廻り、炎へ向って呼びぬいた。彼女のいる北の殿も、火をかぶっていたからである。
「おおっ、お館っ」——煙の中から泳ぐように、郎党の梨丸《なしまる》が、彼を見つけて、駈け寄って来た。
「北の方様を始め、女房衆も老幼も、みな、大結《おおゆう》ノ牧へ、立ち退かれました。この有様です。もう、炎も矢も、防ぎはつきません。——殿にも、大結へお落ちあそばしますように」
「ついに、だめか」
狂風は、炎をあおり立てて、眼の及ぶかぎりを、火の海としている。しかも、敵影は見えないが、どこからとなく、敵の矢は、巨大な明りを目標に集中されていた。
父の良持が、生涯をかけて、土とたたかい、四隣と戦って、築きのこした物も、今や一ときに灰燼《かいじん》に帰すかと思うと、将門は、自分も館と共に灰となるのが、正しい死に方みたいに思われた。
けれど、桔梗を思い、乳のみ子の顔をえがくと、このままには、死にきれなかった。