じとじとと、長い秋雨がつづいた。
山蔭に、横穴を掘り、穴の口に、丸木を組み、木の皮で屋根を葺《ふ》いたような小屋が、彼の当分の隠れ家だった。
同じような物を、その附近に、土蜂《どばち》の巣のように作って、主従六、七十騎が、一種の山寨《さんさい》を構成し、しきりに、密偵を放ったり、離散した味方との連絡を計ったり、また食糧の猟り集めなど、営々として、とにかく、再起の意気だけは、持ち耐えていた。
けれど将門は、ここへ落着いた日から、まったく、病が重って、寝ついたきり、身うごきもできなくなった。
脚は、樽のように太く、指で圧すと、ふかく凹《くぼ》む。顔のむくみも、いっこう退かないし、全身のだるさも、気が張っていた間はまだしも、山へかくれてからは、わが身をさえ、持て余すばかりだった。
「桔梗は、無事か。……和子も、変りはないか」
呻《うめ》きながらも、そればかりは、日に何度も、訊くことを忘れない。
「お難しいかもしれない……」
末弟の将武は、郎党たちが、ひそひそ声で、そう呟《つぶや》くのを、何度も聞いた。——ほかの将頼、将平などの兄と、何とか、連絡をとりたいと思ったが、へたに、盲動すると、なお豊田附近に充満している敵の目にふれて、ここの山寨を、さとられる惧《おそ》れがある。
「もし、ここへ、敵に襲《よ》せられたら——」と、考えると、将武は、身の毛がよだった。何とか、長兄の病気を、一刻も早く——と、そればかり祈るものの、その薬餌すら、手に入れ難い。
すると、どうして、知ったものか。亡父《ち ち》良持の友人で、蔭ながら、将門の身に、非常な同情をもっていた菅原景行が、ある日、見舞に来て、将門の病状を見、
「これは、癒《なお》らぬ病ではない。わしも、かつて同じ病にかかったことがある。その薬を届けて進ぜる」
と、いって帰った。
将門は、その人のうしろ姿を伏し拝んで、
「ああ、申しわけがない。あの人には、何事も怺《こら》えとおせと、いつも、堪忍が大事だという御意見をよく伺っていたのに……。ついに、こんなみじめな自分の姿を見せて」
と、病床に、涙を流していた。
数日の後、景行の使いが、薬を届けてよこした。薬草袋を煮ては、毎日何度となく、その薬を飲みつづけた。驚くほど、尿がよく出る。それに比例して、気分が際立《きわだ》って爽快になってきた。
将門は、ひとり語に、
「おれは癒る!」
と、大声でいった。すると、空洞の木霊《こだま》がグワンと(おれは、なおるっ)と、それに和すように、もう一ぺん聞えた。
肉体に、健康がよび返され、その健康が、彼の彼らしい意志気力を、恢復してくると、
「はて。おれはどうして、こんな目に遭《あ》っているのか。相馬小次郎将門ともある者がだ。おれは、決して、喧嘩に負けて凹《へこ》むような男ではない。……そうだ、おれは合戦に敗れたのではなく、おれはおのれの病気に負けたのだ」
むらむらと、こんな考えかたが、頭を擡《もた》げてきた。身のみじめさを、鮮《あざ》らかに、見廻すにつけ、最愛の妻子の、あわれな船住居を思うにつけ、彼は、心に、遺恨の弓を、ひきしぼって、満を持すような眉を示した。
「どうだ、おれの顔は。……もうすっかり腫《は》れもひいたろう。滅法、粥もうまくなって来た。何を喰っても、餓鬼のように美味《う ま》い」
——その朝は、わけて将門は、気分が快かった。穴住居には耐えなくなり、早暁に鳥の音の中を歩いて帰った。そして大勢の郎党たちと共に、雑穀や木の実をつき交ぜた異様な粥に、小鳥の肉など炙《あぶ》って、賑やかに、食べていた時である。
誰か、麓から、駈け上ってくる。本能的に、みな立った。しかし、味方の物見の者とわかったので、すぐにまた、腰をすえかけると、近づいて来た味方のその物見たちが、口々に、たいへんだっ——といきなり喚《おめ》いた。その声にも、表情にも、たしかに、一同を愕然《がくぜん》とさせる——ただならぬもの——があった。
「北の方の船が襲われた」
「敵に知られて、桔梗さまや、和子様まで」
舌がひッつれて、多くを、正しく、いえないのである。口々の声はみな、報告というよりは、ここへ来て、とたんに、息ぎれと一しょに吐いた絶叫であった。
「なにっ」
将門のそれにたいする声も、ふるえを曳いて、あとは、
「桔梗や、和子が」
と、いったきりである。
唇のほか、血のいろもない顔を、じっと、持ち耐えながら、
「もっと、詳しくいえ。敵に見つかって、どうしたのだ?」
と、やっと次の語を吐いた。そして、物見の三名を、睨みつけた。
「無残や、お姿も見えません。……血にそんだ船や、あなたこなたに、御衣《おんぞ》の袖やら、味方の郎党の死骸は、捨てられてありましたが」
すべてを聞き終らないまに、将門は、山を駈け下りていた。もちろん、すべての彼の部下が、山つなみのような勢いをなして、彼に駈けつづいたことはいうまでもない。
麓に近い平地に、味方の馬十数頭が隠してある。彼は、その一頭へ、とびのった。うしろに、兵が続いて来ようと来まいと、問題ではないらしい。彼はただ、彼の魂が翔《か》けたい方へ、駈けている。
陸閑岸から、彼の妻子の船のある湖辺まで二、三里はある。その間、将門は、道も眼に見えなかった。
蘆荻と、水が近づいた。
晩秋の大気は、水も空も、ひとつの物みたいに、しいんと、澄みきって、そこに、何があったかを、疑わせる。余りにも、自然は、平和であったし、美しすぎるほど、美しい秋を深めている。
「……桔梗っ」
馬を降りた将門の声が、水へひびいた。同じ叫びを、彼は、白痴の児のように、何度も、水へむかって、繰り返した。
「き、き……桔梗……」
やがては、ただ咽《むせ》び、ただ涙となり、そして、おろおろと、あたりを、行き暮れたように、歩き廻って、突然——
「おれだぞ。将門だ。……桔梗よ」
と、水の中へ、ざぶざぶ、這入《はい》って行こうとした。
すでに、後から駈けて来た面々も、そこらの地上を、物色したり、そして、芦間に、血に染《し》みて、沈みかけている破れ船を見つけたりして、地だんだを踏んで、呪いや不覚を、口走っていたのである。
「あっ。どこへ。……お館様、どこへ」
将門の異様な行動を見て、郎党のひとりが、抱きとめた。将武も走りよって、手をつかまえた。
「離せっ、おいっ。……離さぬか」
将門は、恐ろしい力で、二人を刎《は》ねとばした。
将武は、足に、しがみついて、
「あ、あぶのうございます。兄者人っ、あの船には、誰も、おりません。桔梗さまも、誰も……」
「いる。……いる……。おれには、見える。……桔梗が、和子が」
「おういっ。み、みんな、ここへ来てくれ」
と、将武は絶叫した。
「——兄者人が、発狂なされた。……あ、兄者人を、どこか、よそへ、担いで行ってくれ」