右馬允貞盛は、ちぬの浦(江戸川尻)の沖を行く便船の上に、坐っていた。
ほかの沢山な旅客とはべつに、艫の一部を囲い、従者の長田真樹《おさだのまき》と牛浜忠太の二人を相手に、弁当をひらいて、小酌を交わしている。
土民的な地方人は、この主従に、眼をそばだてたが、
「都の堂上人が、東下《あずまくだ》りして、歌の旅でもしているのか……?」
と、いったような観察しか持てなかった。
便船は、今朝、上総の浜を出て、武蔵の芝崎村(後の浅草附近)へ向っていた。——で、船がいま、ちぬの浦をよぎる頃になると、旅客はみんな騒然と一方の天を見て指さしあった。——はるか西方に豊島《としま》ケ岡や飯倉《いいぐら》の丘陵(後の芝公園附近の高台)が半島のような影を曳《ひ》いて望まれ、その方角に、富士の噴煙が、あざらかに眺められた。
「おお、西の空、えらい黒煙だ。数日前から、富士山が爆発したという噂だったが、あれがその煙だろうか。……まるで、雪雲のような灰ではないか」
貞盛は、杯を片手に、ふしぎな天変の相貌を、見上げて、いった。
従者、二人も、
「ごらんなさい。この辺の海まで、何やら、霧のようなものが、立ちこめています」
「や。……杯の酒の上まで、灰が降ってくる。これでは、相模、武蔵などは、灰に埋まってしまうかも知れませんな」
「まさか……」と、笑って、「富士の噴火は、初めてではない。噴くだけのものを噴き上げ、燃えるだけのものを燃やしてしまえば、自ら、熄《や》むだろう」
貞盛は、杯を覗きながら、ひと口に飲みほした。そして今、なにげなく出た自分のことばが、常総平野に大乱を捲き起している将門の猛威を、無意識に、予言したように思った。
「……そうだ。あわてることはない」
飯を噛みながら、彼は、自分へいって聞かしていた。正直のところ、彼は、将門が想像以上、屈しないし、まだ幾らでも、彼への味方が出てくるので、先頃来、あわてていた。
京都へ上っては、政治的工作に奔走し、常陸へ帰っては、国々の郡司や、国庁の役人たちを、説き廻って、
(すでに、中央では、将門の罪をみとめ、将門追捕の令が、発せられている。——四隣の諸国は、協力してこれを討つべし——と官符もそれぞれ届いているはずだ。なぜ、兵を出して、筑波に拠《よ》り、良兼殿を助けないか)
と、それの督促に、常陸、下野、上総、安房、武蔵などを、歴訪している彼であった。
夏以来——将門と良兼との戦闘はじつに激烈を極めていたのに、たえて、戦場には貞盛の名すら聞えなかった。——意識的に、彼自身、表に立つのを、避けていたものにちがいない。
彼は、将門とは正反対な、理性家であり、良正、良兼などという老獪以上に、若いが悧巧者なのだ。野蛮な喧嘩や殺し合いは、良兼に、受け持たせて、自己の姿を巧みにぼかしていたものと思われる。
だが、このところ、賢明なはずの彼も、少々、慌て気味だった。折角の“官符ノ令”も、いっこう威令が行われない。国々の国司や郡司は、みな傍観的である。貞盛として、これは晏如《あんじよ》たり得ない。——やがて。
船は、芝崎の入江にはいった。船を降りると、彼の前に、
「やあ、日和もよくて、お早いお着きでしたな」
と、早速、駒を曳いて、一群の郎従と共に、貞盛を、出迎えて来ていた人物がある。
武蔵《むさしの》介《すけ》経基《つねもと》だった。