国庁の兵火を見捨てて、山づたいに、常陸から下野へ逃げ奔《はし》った貞盛の主従が、秀郷を頼って、やがて赤城《あかぎ》山麓の田原の館《たち》に辿り着いたのは、十二月に入ったばかりの寒い日だった。
押領使藤原秀郷は、家人《けにん》からそう聞くと、
「——おう。来たか」
と、予期していたもののように頷いた。
だが、すぐに会おうとはいわなかった。
右手の中指を、頬のクボに当てて考え込む容子《ようす》は、たとえば、狡智《こうち》に長《た》けた老獣《ろうじゆう》が、餌物を爪で抑えながら、さてどう肉を捌《さば》いて食おうかとしているような余裕とほくそ笑みをつつんでいる。
「いるといったのか」
主人の意外な受け方に、取次の家人は、まごついた。
「は。つい、御在邸と申してしまいましたが」
「そうか。……ならば」と、秀郷はここでまた、老獪そうな眼《まな》ざしを、じっと沈めて、
「風邪で臥《ふ》せっておるといっておけ。——しかし、ていねいに犒《ねぎら》えよ。粗相にはするな。よろしいか。西の屋の客殿に請じ、酒肴をさしあげて、よくわけを申せ。秀郷はお会い申したく思うておるが、何せい老齢ではあり、この寒気。深く寝屋に閉じ籠っておりますれば……と」
「心得ました。お旨《むね》のように、粗相なく致しておきまする」
家人は引き退がった。
翌日、秀郷は、饗応に当った家臣の一名を呼んで、そっと様子を訊ねた。
「どうした。客の貞盛は……」
「手厚いおもてなしに、たいへん恐縮しておられまする」
「立帰るような口吻《こうふん》はないか」
「何か、容易ならぬ事で、ぜひ、お縋《すが》り致さねばならぬとか申されて——お風邪の癒《い》える日まで、御逗留のおつもりらしゅうございます」
「そうだろう。……ま、もう二、三日は待たせておくもよい。秀郷に会わずに帰る筈はない」
彼は、何もかも見抜いていた。貞盛の来意ばかりではない。およそ坂東平野の出来事なら、知らない事はないほどである。わけても、常総《じようそう》方面の将門旋風にたいしては、これを対岸の火災と見てはいなかった。いつ、下野へ火の粉が飛んでくるかもしれないと警戒していたし、また、あわよくば、虎視眈々たる野心もひそかにいだいていた。
そういう秀郷の眼から見ると、いかに才賢《さいかしこ》く立廻っているようでも、貞盛などはまだまだ青くさい一若輩に過ぎなかった。
ましてや今は、将門に追われて、空しく都にも帰れず、常陸にも止まれず、いわば五尺の身を容れる所もない窮鳥であるのだ。——秀郷ほどな男が、これに対して、五分と五分の取引を考えているはずはない。
数日の余も、貞盛を焦《じ》らしておいてから、さて秀郷は、やっと床を上げたような顔をして、貞盛に対面した。
貞盛は、焦躁から解かれただけでも、ほっとした顔つきだった。当然、主客の応対は、あべこべとなる。つまり秀郷は尊大に構え、貞盛はそれに阿《おもね》るのほかはない。
「わしに兵力を貸してくれといわれるのか」
「ぜひ、御助勢を願いたいのです」
「したが、あんたは中央の命を持ち廻っておられるのじゃろ。官符を布令《ふれ》て、なぜ相模、武蔵、上野などの諸国に号令し、また一刻も早く、朝廷からの追討軍を仰がぬのか」
「仰せまでもなく、都へは、幾たびも早馬をのぼせております。……が、いつの場合でも、こんなとき、征夷大将軍が任命されて、兵が下って来るまでには、数ヵ月を要しまするので」
「はははは。堂上の公卿集議と来ては、戦《いくさ》も花見も、同じものにしておるからの」
「いや、このたびだけは朝廷でも、天下の大事と、いたく驚きもし、諸令を急いでもおるのです。しかし、何せい時を同じゅうして、またぞろ、伊予の純友が、内海に乱を起したため、都は、海陸からの腹背の恐れに会い、まったく、狼狽の状にあるものらしく思われます——」と、貞盛は、自分の苦境はいわず、ただ中央のそればかりを説いて、「——すでに、御当家へも、いくたびとなく、官符の御催促は来ているはずですが、正義のため、また朝廷の御為に、枉《ま》げて御出馬くださいませ。貞盛はその為、敵地を脱して、これまで、お迎えに参りました。もし、おききいれなき時は、将門の威力は、坂東八州を併呑し、やがてこの地方はいうもおろか、甲、信、駿、遠の地まで、威を振って来ることは間違いありませぬ」
と、畢生《ひつせい》の弁をふるって、秀郷を説いた。