準備には、おそらく、十数日を要したにちがいない。何しろ、凱旋早々、軍旅をここに駐《と》めて、挙行したことでもあるから。
で。その日は、天慶三年の一月も、半旬《なかば》を過ぎていたのではあるまいか。
とにかく、布令は、新領下の八ヵ国に、早馬を継いで、公達された。
伝え聞いた諸郡の人々は、
「相馬殿の御威勢を以て、どんな大祭典をやるのか」
と、ここ大宝郷へ、蝟集《いしゆう》して、肩摩轂撃《けんまこくげき》の人波をその日には見せた。
大宝八幡の祭典は、三日にわたって執行された。第一日は、東八ヵ国掌管の戦捷を告げて、楽土安民を祈願し、第二日目には、新たに、各州の庁に任用された百官の礼拝と、神前の宣誓式があり、さて、三日目には、
「軍功を賞し、祝酒を給わるであろう。全軍の将兵も、弓を袋に収め、このよき新春を、寿《ことほ》ぎ合うがよい」
と、あって、早朝に、恩賞の沙汰が発表され、社前の満庭を、大宴会場として、神楽《かぐら》殿《でん》における奏楽と巫女たちの舞楽のうちに、万歳、万々歳を三唱して、いよいよ大饗の酒もりになったのであった。
神楽は、夜神楽、朝神楽と、三日間というもの、たえまなく奏されていたが、特に、大饗楽となると、土俗的な俚謡《さとうた》や、土地《ところ》の土民舞なども、演じられて、早くも、酔狂な将兵たちが、各扮装をこらして舞殿《ぶでん》にあがり、将門を始め、帷幕の諸将の喝采をあびていた。
その将門は、というと。
拝殿前の広庭に、臨時に出来た大桟敷が見える。そこには、彼の一族や諸将の顔ぶれはもちろん、新任の府官や吏生《りせい》など、数百名が、群臣の礼をとって、陪席していた。
そして、彼自身は、将台と称《とな》える一だん高い座に、大きく坐った。そこだけは、幄舎形に、屋根や袖部屋の設けもあった。うしろは、橋廊下から社家の住居へも通えるのである。さながら、殿閣の王者みたいであった。
その上に、彼のそばには、彼の侍妾かと思われる十数名の美姫が侍《はべ》っていた。——また、諸将諸官の席には、緋の袴の巫女やら、舞衣を着けた門前町の妓たちが、入り交じって、銚子や杯の乱れあう間に、嬌声をながしていた。