整備はととのった。上毛、房総の兵をあわせた管領軍は、謙信の指揮のもとに、北条氏康の罪を鳴らして、
「降伏か、滅亡か」
を、小田原の城下に迫った。
その年、三月から四月にわたっての、攻防戦はつづけられた。花も散って、春は徂《ゆ》こうとしていた。
陣中の客、近衛前嗣は、
「一日も早く、宇内《うだい》に大志を展《の》べられるよう、陰ながら祈っています。四民のために」
と、ここで別れて都へ帰って行った。
合戦の際であったが、謙信は足柄境《あしがらざかい》までこれを見送って、
「いずれまた都においてお目にかかりましょう」
と、自信をもっていった。大きな将来の自信をもって。
しかし当面《とうめん》の小田原一城も、容易に陥落しなかった。理由は、逸早《いちはや》く甲州から信玄の有力な部隊や参謀が城内に入っていて、氏康に協力していたからである。
それらの甲州参謀は、
「なおなお兵力も軍需も、いくらでも甲州より後詰《ごづめ》申さんとのお館《やかた》の仰せであれば、飽くまで、この要害に拠《よ》って、守るを主とし、城門を出て戦うことはせぬが得策」
と、主張していた。
寄手《よせて》をここに釘付けにし、わけても遠征の越後勢を疲労せしめ、謙信をしてまったく施す策なからしめんとする方針だった。
五月になった。
しかも城壁の一角すらまだ奪《と》れない。城方の計は図に中《あた》ったといえよう。謙信はついに一度軍を退《ひ》いて、味方の倦怠《けんたい》を一新し、敵の変を待とうとした。
彼が、上杉憲政とともに、鎌倉八幡宮へ参詣したのは、この期間であった。憲政は、その機会に、
「以後は自分の同族ともなったつもりで、上杉の姓を名乗られよ」
と、すすめた。
それまでの謙信は、あらためていうまでもなく、管領の一被官《ひかん》で、姓は長尾、職は越後の守護代《しゆごだい》であった。