物見のやりとりは、互いに繁《はげ》しい。
死を賭して、敵の本陣へ近づくしか、敵の核心《かくしん》を知る道はなかった。
ふつうの物見は、もとより小人数で行く。一人か二人の場合もある。
ところが、海津城から出た小物見では、生きて帰ってきた者がない。
そこで高坂弾正は、おとといの晩、二十五名組の大物見を出した。これなら敵の斥候隊と出合っても、それを殲滅《せんめつ》して哨兵線を突破することもできようし、あわよくば妻女山の本陣まで接迫して、一人や二人は、何らかの情報を齎《もたら》して来るだろうと期待していたのである。
「又六。もどったか」
弾正は、楼を下りると、すぐ城郭《じようかく》の一室へ、物見頭の高井戸又六を呼び入れて、報告を迫っていた。
又六も、左の手を負傷して、肱のつがいを、接木《つぎき》のようにボロでまいていた。
「多田を越えて、大村まで参りましたれど」
「なに、大村までしか行けなかったと」
「敵の伏勢に囲まれて、さんざん討ちなやまされ、漸く、七名だけ遁《のが》れてきたような有様でして」
「あとはみな討死したのか」
「いえ、べつに、その前から、二人だけは、百姓姿にして、法泉寺の山から大《おお》迂回《まわり》に、土口《どくち》のほうへ忍ばせました。これが、生きて帰って来れば妻女山のもようも知れようかと存じますが」
弾正は、落胆した。
兵は失ったが、得るところはなかった。で、信玄の君前にまた軍議の席へ、何の披露する材料もなかったが、その翌々日の明け方、もう期待していなかった物見のひとりが帰ってきた。又六の大物見から離れて、山また山を迂回し、首尾よく妻女山の本拠を窺《うかが》ってきたという殊勲者であった。
ところが、折角、そういう虎口に入って、得難い敵の実状に触れてきながら、生憎《あいにく》と、その殊勲をあげた物見は、この近郷に生れた樵夫《きこり》あがりで、魯鈍《ろどん》と実直だけを持った男だったため、弾正の質問に対して答えるところが頗《すこぶ》るあいまいで要領を得ないものだった。
以下、その質問と、彼の答えとを、並べてみると、こんな風である。
「おまえは、妻女山まで行ったか」
「へい。参りました」
「妻女山のどの辺まで」
「山の上から、方々、歩いてきました」
「どうして敵に捕まらなかったか」
「わからねえでがす。おらにも」
「妻女山には、何があった」
「上杉方の武者衆が、たくさんいました」
「山上まで歩いたならば、謙信のいる本陣も見かけたであろう」
「へい。ちょうど、山の上に一晩夜を明かしましたで」
「本陣を窺ったか」
「夜半に、琴の音が聞えましたで、はて、変だなと思いながら、木の蔭を、ごそごそ這ってそこまで行きました」
「琴の音が? ……。琴の音とは何じゃ。夢でも見たのではないか」
「おらも、初めは、夢かと思いましたが、覗《のぞ》いてみると、大将の謙信が、小さな唐琴を、膝にのせて、弾いておりましたで、やっぱり夢でなかったと思いました」
「覗いたとは? どこを」
「篝《かがり》の燃えている本陣の内を」
「そこで、謙信がただひとり、深夜、琴を弾じていたと申すか」
「ひとりでございませぬ。陣幕《とばり》の裾のほうへ退がって、若い大将、髪の白い大将、何やら五、六人はおりましただが、みな、居眠っているのやら、泣いているのやら、首をうなだれて、じっとしておりました」
「謙信の弾く琴を聞いていたのであろう」
「そうかも知れません」
「その臣下へ向って、謙信が、何か申したか」
「琴を弾いては、雨曇りの月を仰いで、低声《こごえ》に、歌を謡っているだけでした」
「陣中のさむらい共は、みな元気にみちていたようか」
「馬ばかりよく嘶《いなな》いておりましただが」
「馬のことではない、士気はどう観えたか」
「よく分りましねえだ」
「兵糧は有るようか無いようか」
「ありません」
「ないか」
「ありません」
「士気の旺《さかん》か否かも分らぬそちに、よく兵糧の有無が分ったな」
「足軽や侍の喰っているのを見たら、玄米ではありません、粟粥《あわがゆ》や芋粥です。それから、荷駄馬の骨が捨ててありました。馬の肉も喰べています。山中どこを見たって、豆俵も米俵もありませぬし」
「どうして無事に帰って来られたか」
「雨宮からずっと下流《し も》へ戻って、八幡原の向う側を、ぶらぶら歩いて帰って来ました」
いくら根掘り葉掘りたずねてみても、結局、こんな程度であった。
だが、それを伝え聞いた信玄は、
「それも勇士だ」
と、いった。
そして、厚く褒美をやれと命じ、その覚束《おぼつか》ない敵状資料をつぶさに含味《がんみ》して、何か、彼としては充分に、得るところはあったらしい。
月はこえて、もう九月の上旬である。去月の十六日、ここに陣して、すでに二十日に余る上杉軍としては、よほどな兵糧をあの山に運び上げない限り、兵糧の欠乏しはじめていることは想像できる。
決死捨身の彼の布陣も、そのあいだに、だいぶ意気は消耗したろう。必死の気も、刹那のものだ。その気負いきった鋭角を外《はず》されるとまた、ふだんの煩悩《ぼんのう》に回《かえ》る。
今や謙信以下の者は、自ら潔《いさぎよ》しとなしていた無策の陣に、かえって、虚無を感じ、危惧《きぐ》をおぼえ、退くに退かれず、進むに進まれず、妻女山一帯を生ける屍の墓地としてしまっている。そうだ。それにちがいない。
信玄は、そう考えた。
そして、それを撃滅するには、急ぐにも当らない。むしろここ数日はなお過ごしたほうが得策であるやも知れぬとなして、ひそかに、彼が画策している啄木の戦法なるものを、手ぬかりなく配備し、また充分な効果をあげるべく、人数の割当、部将の配置、時刻、行動、地の理など、鋭意研究し、まだ準備にかかっていた。
その啄木の戦法というのは樹体《じゆたい》の洞《うつろ》にふかく隠れ、容易に外に出てこない虫の群《むれ》を、樹皮の側面から嘴でたたいて怯《おび》えた虫の群がぞろぞろ表面に出てくるところを、思いのまま餌として胃へ呑み下してしまうという、いわゆる啄木《きつつき》なる鳥の智をそのまま理念にとって、乾坤《けんこん》も震う一大殺戮戦《さつりくせん》を果たそうとするものだった。