「おや。……何であろう?」
鶴菜《つるな》は、枕から面を擡《もた》げた。
病んでから二十日余り、寝床のうちに籠りきりだったせいか、旅焦《たびや》けに小麦色していた頬も頸《くび》も抜けるほど白くなっている。
「おお、馬の嘶《いなな》き……あの人声……ただ事ではない」
耳を澄ましていたが、やがて恟《ぎよ》っとしたように、どこかしら痛むらしい体を無理に寝床の上に起して、
「神主さま。神主さま!」
と、次の部屋へ呼びたてた。
ここは八幡原の真っただ中、一叢の木立に囲まれている一軒家だった。家のそばには蒼古《そうこ》とした鳥居がある。そして日頃は、老いたる禰宜《ねぎ》と家族が住んでいた。
二十日ほど前の黄昏《たそがれ》、鶴菜は千曲川の岸で弾に中《あた》って倒れ、居あわせた馬糧刈りの人々に担《にな》われて、ここの社家まで救われ来たのであった。
それからずっと——
彼女は、親切な老禰宜の世話になって、傷口の養生をしていたが、鉛丸《なまりだま》の除《と》り方が素人療治であったせいか、左の脚の甲からくるぶしがひどく腫れあがり、今以て十歩とあるくこともできないのだった。
「神主さま! お内儀《ないぎ》さま」
返辞がない。彼女は這った。そしてなお次の間へさけんだ。
「いよいよ戦です。すぐこの近くで戦われそうです。はやく今のうちに、お子達をどこかへ移さないとお怪我をしますよ。流れ弾や、反《そ》れ矢《や》が、こちらへも飛んで来ましょう……。お内儀さま、お眼ざめですか」
脚が痛む。起とうとするが起てない。這い寄って、襖を開けた。
そしてまた、もう一間《ひとま》を、這って行った。
返辞のない筈。老禰宜もむすめも、その子どもも、どこへ行ったか、寝部屋は藻抜《もぬ》けの殻になっている。彼女はちょっと茫然《ぼうぜん》としたが、またかえって安心もした容子だった。逸早く、むすめは子を負い、むすめの良人は老禰宜を扶《たす》けて、どこかへ避難したにちがいないと察したからである。
「ここへ陣したのは、甲軍であろうか、越後勢か?」
彼女自身は、この一軒家に、ただ独り取残されたことを、さして悲しむふうもなければ、寂しむ面《おもて》も見えなかった。
外の杉木立は轟々と空に吠《ほ》え、落葉の声が、霧を捲く。風がこの家を馳けめぐる物音の中には、明らかに兵の跫音《あしおと》も交《ま》じっていた。
ここの家族たちが逃げ出す時、開け放して行ったのだろう。縁の雨戸も除かれ、台所の戸は仆《たお》れていた。——その暗い水瓶《みずがめ》のあるあたりに、ぬっと巨大な人影がうごいた。そして、がたがたと、音をさせていたかと思うと、そこから手桶《ておけ》を捜し出して、すぐ裏の井戸の側へ寄って行った者がある。
ざあと釣瓶《つるべ》をあけて、手桶へ水を汲み入れていた。その巨大に見える鎧武者の影である。
「あっ。お父上っ。お父上ではございませんかっ……」
鶴菜は、絶叫した。
釣瓶の竿を握ったまま、鉢金《はちがね》の兜《かぶと》、薄金《うすがね》の面頬《めんぼお》に、ほとんど眼と鼻だけしか現わしていない武者の顔は、屋内を振向いて、ややしばらく鶴菜の影を凝視していた。