鰹木《かつおぎ》の立っている檜皮葺《ひわだぶき》の一宇が見える。八幡神社の古い拝殿だった。それと背中合せに南面して、かなり広い地域にわたって諸所に陣幕が張り繞《めぐ》らされている。
信玄のいる本営は、ここら辺から方一町に及ぶ全部がそれといっていい。どこの、どの幕囲のなかに、信玄その人が床几をすえているのか、旗じるしや馬簾《ばれん》だけを的に捜したのでは分らないほど、同じような幕営がいくつもあった。
「よい水を求めて参りました」
初鹿野伝右衛門は、その一つへ身を潜《くぐ》らせた。そこには明らかに信玄の姿があった。
床几を空にして、信玄は立っていた。彼の満身には戦気が立っている。夜来の烈しい血しおのうごきが、自然、口腔《こうこう》を渇《かわ》かせて来るのであろう。彼はさっきから頻りに一杯の水を欲しがっていたのである。足軽でも奔《はし》らせるべきではあるが、主君の飲料水となると小者では心許《こころもと》ない。私が——と伝右衛門自身歩いて、漸く捜しあてて来た井戸水であった。
「ああ、うまい。満足した」
柄杓《ひしやく》の水を、約半分ほども、一息に飲んで、信玄はそれを桶へ返した。
からりっと、柄杓の柄が、桶の縁《ふち》に鳴った。それが何らかの暗示でもあったかのように、彼の毛の生えている大きな耳がびくと立った。
「……はて。伝右衛門、其方《そ ち》には聞えぬか」
「何がでござりますか」
「異様なものだ……何がともいえぬが」
「鉄砲の音なれば、つい唯今戻って来る途中で耳にいたしましたが」
「いや、あれは、典厩信繁《てんきゆうのぶしげ》が陣地の臆病な哨兵が、何かを粗忽《そこつ》に見ちがえて、慌てて一発放したうろたえ弾《だま》だ。——そんなものではない、もそっと夥《おびただ》しく、しかも色もなく音もないものだ。何といおうか。この深い霧のながれの真白な闇が、惻々《そくそく》とわが陣営の上にそれを告げ迫っている心地がする。……そうだ、やはり兵馬のうごきだ。豊後《ぶんご》っ、豊後」
幕口の一方に、四、五人の旗本たちと長柄を掻《か》い持って警固に立っていた諸角豊後守が、はっと五、六歩出て答えた。
「要所の壕は掘り終ったか。土塁も築き終ったか。それともまだか」
「まだ、内藤殿の陣前、小笠原殿の陣の横などで、足軽どもが急いでおりますが」
「……ではその声かの? えいえいと喘《あえ》ぐ声か」
と信玄はまた思い直して、しばらく床几に心を落着けようとしているふうであったが、また突如として、物見頭の望月甚八郎を呼びよせ、
「そちの手より放った物見共、雨宮《あまみや》の渡しや、小森方面の気配《けはい》など、まだ何も告げて来ぬか。戻ってきた者はおるか」
と、たずねた。甚八郎は、
「まだ一名だに——」と、すこし恐縮して答え、
「自身、見てまいりましょうか」
と、信玄の顔を窺った。が、その時、信玄の感能は何ものに触れたのか、その大きな眼を空へつりあげ、からだも共に、床几からぬっくと起して、
「あら、思いがけなや」
と、ひとり大声にいった。
「まだ妻女山へ襲《よ》せた味方からも、何らの伝令もなし、物見もみな帰らぬというに、これへ敵上杉の軍勢の来るいわれはないが……何としてか! ……夥《おびただ》しいあの人馬の音は?」
彼のことばに、幕中の将士もみな耳をたてた。鏘々《しようしよう》と甲冑《かつちゆう》のひびきが聞える。明らかに簇々《ぞくぞく》と兵団の近づくような地鳴りがする。すわと、にわかに信玄のまわりは色めきたった。
「あわてるな」
信玄は、途端に、悠然たるものを示した。彼の顔色とその巨きな恰腹《かつぷく》を見るとみな気が鎮《しず》まった。信玄は呼びたてていた。
「浦野民部。民部左衛門やある。すぐ物見してまいれ。辞儀無用っ。早く」
あっと、答《いら》えがするとすぐ、民部左衛門の半身が陣幕の上に高く見えた。馬の背にとび乗ったのだ。
一鞭加えたと思うと、またたくまに引返して来た。ずしと鞍からとび降りると、すぐ信玄のまえに跼《ひざまず》いて告げた。
「やはり敵軍にござりまする」
「何。やはり上杉勢か」
「長い長い縦隊をもって北へ北へ進路をとり、犀川の方へ向っております」
「その先鋒は、犀川を渡ったか、渡らずにあるか」
「その辺より、右折して、次第に大きな彎月形《わんげつけい》を作っておりますが、あの歩足振《ほそくぶ》りでは、合戦が始まるにしても、さまで急に、捗々《はかばか》しいことには及ぶまいかと存ぜられますが……」
と、語尾をにごして、浦野民部左衛門は、信玄の眼を見た。信玄は、彼の眼のうちのものを「うむ」と、大きな頷《うなず》きと共に読みとった。
物見の報告にも、仕方がある。味方の士気を挫《くじ》くようなこと、狼狽を駆り立てるようなこと、また、敵の強味などは徒《いたずら》に語らぬが法とされている。——とはいえ真を語らなければ主将たる人の判断を誤ろう。眼をもって伝えることもあり、口をもってわざと主君の周囲を偽ることもあり得る。要は、臨機の気転にあるといってよい。