「見えぬっ」
「何処へ」
「はや、お討死か」
千坂内膳、和田兵部、大国平馬、鬼小島弥太郎など、旗本八、九名は、みな徒歩《か ち》立《だ》ちであったため、主君謙信のすがたを途中に見失ってしまい、
「われわれ、片時たりとお側を離れずにいたものが、お館様おひとりを敵中に見失い、万一あっては、それこそ世の物笑い、末代までの恥」
と、彼方《あちら》此方《こちら》を、殆ど、無我夢中に駆けまわり、暴風雨《あ ら し》に吠《ほ》ゆる樹々のように、
「わが君っ」
「お館さまあっ」
と、呼ばわり捜していた。
すると、同じ組の士、芋川平太夫と永井源四郎のふたりが何処から来たか、天《てんぴよう》に吹き落された小雀のように、彼方の陣幕《とばり》の蔭へ向って、驀《まつ》しぐらに飛びこんで行くのが見えた。
「やっ。平太夫が」
「さては御主君もあの辺りに」
面々は先を競《きそ》って、その幕囲《まくがこ》いへ奮迅《ふんじん》していた。いや、上杉方の十二旗本ばかりでなく、附近の敵の小屋や幕囲いの間を、右往左往していた武田方の旗本も、主君信玄の座所たる営中に何かしら異様な音響を聞きとめて、ひとしく同じところへ向って駆け蒐《あつ》まっていた。
当然。そこへ迫るときは、謙信の旗本も、信玄の旗本も、たがいに体と体のぶつかるほど、混み合っていた。
けれど、彼もこれも、殆ど、横の敵を意識しなかった。
武田方の旗本は、信玄の万一を思い、上杉勢の旗本もまた、謙信の身を案じて、双方ともにその燃ゆる眼や凄《すさま》じい姿勢の前には、ただ主君の安危如何があるだけで、それ以外の何ものもなかったのである。
このとき謙信は単騎、信玄の営中に駆け込み、信玄その人を眼に見、しかも小豆《あずき》長光の一颯《さつ》、また二刃も空しく、わずかに信玄の右腕に軽傷を与えたのみで、敵の原大隅に邪《さまた》げられ、槍の柄で乗馬の尻を打たれたため、放生月毛は、彼を乗せたまま、跳《は》ね驚《おどろ》いて、猛然、そこの陣営から横ざまに駆け出して来た。
「あッ——」
名状すべからざる混乱中でまだよかったともいえる。木の根にでも躓《つまず》いたのか、放生月毛は前へのめった。そして謙信は勢いよく落馬していた。
追い慕った原大隅、その他、幾つかの槍は、
「得たり」
と、われがちに、謙信のすがたを臨んで、おどり蒐《かか》る。
「あなや。御危急」
上杉方の旗本が、何で看過していよう。どっと、横ざまに驀走《ばくそう》。
「ござんなれ」
と、槍の穂を揃えて遮《さえぎ》った。
放生月毛はこのあいだに、空鞍《からくら》を乗せたまま長坂長閑の陣地内へ、向う見ずに狂奔《きようほん》してゆく。
そして、謙信はといえば、そこへ逸早く、鬼小島弥太郎が、拾い馬の口輪《くちわ》をつかんで曳き寄せて来たので、その背へ跳び乗るが早いか一鞭加えて、
「返せ。返せ」
と、旗本たちへ呼びかけながら、ふたたびむらがる敵の中を割って、味方の内へ迅《はし》り去った。