「や、明りが見えます」
漸く、民家を見たかと、左馬介が歩みながら、馬上へ告げると、
「いや、農家の火ではあるまい」
謙信は顔を振った。
そういわれてみると、ただの燈火や、農家の炊《かし》ぎの火にしては、ちと火光が大きすぎる。
「なるほど、仰せのとおり、大焚火している者があるようです」
道を二、三町もすすんでから、宇野左馬介も怪しみ出した。和田喜兵衛が、物見して参りましょうか、というと謙信は、
「それには及ばぬ。この辺にまで武田勢の散っておる謂《いわ》れはなし、思うに、きょうの合戦を気構えて、落人《おちゆうど》の道に網を張り、稼ぎを待つ野武士共の群に相違あるまい」
「野武士とあれば、多くも二、三十人。それも多寡《たか》の知れたあぶれ者の烏合《うごう》です。喜兵衛殿と二人して、お道を払って参ります故、殿にはしばし木蔭にでもお憩《いこ》い遊ばしてお待ちください」
左馬介が早、馳け出そうとすると、謙信は、
「止《や》めよ。止めよ」
と、駒を回《めぐ》らして、
「遠くも、ほかを廻り道して行こう。喜兵衛、細道を捜せ」
と、いった。
甲軍数千の鉄壁を蹴やぶって、その旗本陣へ単身駈け入ることすら敢えてした謙信が、道を阻《はば》む野武士の焚火を見ると、馬を回《かえ》して、無事な抜け道をさがしているのだった。
その夜は、保科《ほしな》の山路をこえて、大木の蔭に、わずかな一睡をとった。
次の日は、高井野の里から山田を越え、更級《さらしな》へ下りてゆく。
その晩も、野武士に出会ったが、避けるに道なく、喜兵衛と左馬介が追いちらして通った。
しかしこの一群の野武士は、謙信の鞍装束《くらしようぞく》の値打を踏んで、どこまでも執念ぶかくあとを尾けてくる。
夕暮、安田の渡しとよぶ川筋へかかった。振顧《ふりかえ》ると、小一町ほどうしろに、がやがや声をあげながら野武士のかたまりが騒いでいる。笑止なことには、近づいては来ないのである。虚があったら咬《か》みついて来ようとしている狼の群に似た。
「よいものがあります。あれへお駒を曳いて渡りましょう」
対岸へ向って、こちらの堤《どて》から、太い綱が一本張ってある。その下に繋いであった筏《いかだ》に馬と人は乗った。
その太綱《ふとづな》を手繰《たぐ》って、筏が川の中ほどまで出たとき、うしろの堤の上にまた四、五十人の人影があらわれた。すぐ追って来た野武士たちである。
「何か吠えておりまする」
筏の上で、喜兵衛と左馬介が笑ったとき、二、三本のヘロヘロ矢が飛んで来た。鉄砲も持っているらしいが、弾が無いとみえる。ただ白い歯を剥《む》き出している顔ばかりたくさん見える。
筏は、悠々と、岸に着く。
謙信は馬の背に移りながら、
「左馬介。その渡し綱を、斬っておけ」
と、命じた。
左馬介が、太刀を抜いて、太綱を切ると、ばしゃッと、水面を打ったそれが、大きな弧を描いて、一方へ流れた。
白い歯だの、たわしのような頭だの、大きな手の影などが、対岸の堤のうえで、再び口々に何か吠えたり、罵ったり、地だんだ踏んで躁《さわ》いでいるようである。もうここは戦場でない。世間であった。