[書き下し文]陽貨、孔子を見んと欲す。孔子見(まみ)えず。孔子に豚(いのこ)を帰る(おくる)。孔子その亡きを時として往きてこれを拝す。諸(これ)に塗(みち)に遇う(あう)。孔子に謂いて曰く、来たれ。予(われ)爾(なんじ)と言らん(かたらん)。曰く、その宝を懐き(いだき)てその邦(くに)を迷わす、仁と謂うべきか。曰く、不可なり。事に従うを好みて亟(しばしば)時を失う、知と謂うべきか。曰く、不可なり。日月逝く(ゆく)、歳(とし)我と与(とも)にせず。孔子曰く、諾(だく)。吾(われ)将に仕えんとす。
[口語訳]陽貨が孔子に面会しようとしたが、孔子は会わなかった。陽貨は豚を贈り物として贈ったが、孔子は会いたくないので陽貨の留守をうかがって返礼した。しかし、途中で陽貨と遭遇してしまった。陽貨は孔子に話しかけた。『さあ、私のもとに来なさい。私と共に語り合おう。身に宝を抱きて、国家を混迷に陥れている、これを仁と言えるのか?』。孔子は言われた。『仁とは言えない』。陽貨は更に語られた。『進んで政治を行いながら、しばしば時機を逸してしまう、これを知と言えるだろうか?』。孔子はお答えになられた。『いや、知とは言えない』。陽貨はおっしゃった。『月日は淡々と過ぎていくものだ。歳月は、私を待ってはくれない』。孔子は言われた。『その通りです。私も近いうちにあなたにお仕えしましょう。』。
[解説]陽貨(陽虎)は、魯国で主君を凌ぐ独裁的な専制主義者となる人物であるが、元々の身分はそれほど高くなく、三桓氏の一つ?季孫子の家宰(宰相)としての地位に就いていた。陽貨は紀元前515年頃から実力を蓄え始め、魯公以上の権勢を欲しいままにしていた三桓氏(孟孫?叔孫?季孫)と並び立つ存在となる。紀元前505年には、遂に陽貨は政治クーデターを起こして、実質的に魯の政権を掌握する権力者になった。下の地位の者が上の身分の者を追い落とす『下克上』を批判的に見る孔子は、魯の政権を実力で奪い取った陽貨のことを快く思っていなかったが、陽貨は見識と仁徳に優れた大学者である孔子を自分の家臣として召し抱えたいと考えていた。
この章は、陽貨の申し出に乗ってこない孔子をおびき出すために、陽貨が孔子に豚の進物をしてそのお礼に出てきた孔子を捕まえた場面である。陽貨は忠節?義理の徳に背いた計算高い政治家ではあったが、知略と武勇に優れた英傑でもあり、さしもの孔子も陽貨からの直々の申し出を厳しくはね付けることは出来なかったのかもしれない。主君への忠義を重視する孔子であったが、陽貨の類稀な為政者としての才覚については認めていたという説もあるが、陽貨が『魯公を軽視していた三桓氏』を追い落とすことを心情的に支持していたのかもしれない。孔子は復古主義的な徳治政治を理想としており、正統な君主が実際に政治を行う『親政』こそが正しい政治形態だと考えていたからである。そのため、三桓氏にせよ陽貨にせよ、魯の主君(昭公)を凌いで家臣(諸侯)?陪臣が実権を振るう貴族政治を良いものとは考えていなかった。しかし、才能に恵まれた稀代の政治家であった陽貨は、結局、紀元前502年に三桓氏の激しい反撃を受けて破れ、魯の国外に亡命することを余儀なくされた。