島本さんは白いワンピースの上に、ネイヴィー・ブルーの大ぶりなジャケットを羽織っていた。ジャケットの襟には魚のかたちをした小さな銀のブローチがついていた。ワンピースは何の飾りもないごくシンプルなデザインのものだったが、島本さんが着ていると、それはこのうえなく上品で装飾的に見えた。彼女は前に見たときに比べると、少し日焼けしているようだった。
「もう二度と来ないのかと思ったよ」と僕は言った。
「あなたは私に会うといつも同じことを言うのね」、彼女はそう言って笑った。島本さんはいつもと同じようにカウンターの僕のとなりのスツールに座り、カウンターの上に両手を置いていた。「だってしばらくのあいだ来られないんだっていう書き置きを残しておいたでしょう」
「しばらく[#「しばらく」に傍点]というのはね、島本さん、待っているほうにとっては長さが計れない言葉なんだ」と僕は言った。
「でもたぶん、そういう言葉が必要な状況というのがあるのよ。そういう言葉しか使えない場合がね」と彼女は言った。
「そしてたぶん[#「たぶん」に傍点]というのは重さの計れない言葉だ」
「そうね」と彼女は言って、いつものあの軽い微笑みを顔に浮かべた。その微笑みはどこか遠くの場所から吹いてくる柔らかな風のように思えた。「たしかにあなたの言うとおりね。ごめんなさい。でも言い訳をするわけではないけれど、しかたなかったのよ。私にはそういう言葉を使うしかなかったの」
「なにも僕に謝ることはないんだよ。前にも言ったけれど、ここは店で、君は客なんだ。君はここに来たいときに来ればいいんだ。僕はそういうのに馴れている。僕はただ独り言を言ってるだけなんだ。君は何も気にしなくていい」
彼女はバーテンターを呼んでカクテルを注文した。そしてまるで何かを点検するように僕をしばらく眺めまわしていた。「今日は珍しくずいぶんうちとけた恰好をしているのね」
「朝プールに行ったときの恰好のままだよ。それっきり、着替える暇がなかったんだ」と僕は言った。「でもたまにはこういうのも悪くないよ。本来の自分にかえったような気がする」
「若く見えるわよ。三十七にはとても見えないわ」
「君もとても三十七には見えない」
「でも十二にも見えない」
「十二にも見えない」と僕は言った。
カクテルが運ばれてきて、彼女はそれを一口飲んだ。そして何か小さな音に耳を澄ませるときのようにそっと目を閉じた。彼女が目を閉じると、僕はいつものあの瞼の上の小さな線を見ることができた。
「ねえバジメくん、私ここの店のカクテルのことをよく考えていたのよ。あれが飲みたいなって。どこでカクテルを飲んでも、ここで飲むカクテルとは何かが少し違っているのね」
「どこか遠くに行っていたの?」
「どうしてそう思うの?」と島本さんは訊きかえした。
「そういう風に見えるからだよ」と僕は言った。「なんとなく君のまわりにそういう匂いがするんだ。長いあいだずっとどこか遠くに行っていたようなね」
彼女は顔を上げて僕を見た。そして頷いた。「ねえハジメくん、私は長いあいだ……」と彼女は言いかけたが、ふと何かを思い出したように黙り込んだ。僕は彼女が自分の中で言葉を探っている様子を眺めていた。でも言葉はみつからなかったようだった。彼女は唇を噛んで、それからまた微笑んだ。「ごめんなさい、とにかく。何か連絡くらいするべきだったのね。でも私は、ある種のものは手つかずにしておきたかったの。完全なまま保存しておきたかったの。私はここに来るか、あるいはここに来ないかなの。ここに来るときには私はここに来る。ここに来ないときには——、私は余所《よそ》にいるの」
「中間はないんだね?」
「中間はないの」と彼女は言った。「何故なら、そこには中間的なものが存在しないからなの」
「中間的なものが存在しないところには、中間も存在しない」と僕は言った。
「そう、中間的なものが存在しないところには、中間も存在しないの」
「犬が存在しないところには、犬小屋が存在しないように」
「そう、犬が存在しないところには、犬小屋が存在しないように」と島本さんは言った。そしておかしそうに僕を見た。「あなたには不思議なユーモアの感覚があるのね」
ピアノ・トリオがいつものように『スタークロスト・ラヴァーズ』の演奏を始めた。僕と島本さんとはしばらく黙ってその曲を聴いていた。
「ねえ、ひとつ質問していいかしら?」
「どうぞ」と僕は言った。
「この曲はあなたと何か関係があるの?」と彼女が僕に訊ねた。「あなたがここに来るといつも一度はこの曲が演奏されるような気がするんだけど。それはここの決まりか何かなのかしら?」
「べつに決まりなんかじゃないよ。ただ単に好意でやってくれているんだ。彼らは僕がこの曲を好きなのを知ってるんだ。だから僕がここにいると、いつもこの曲を演奏してくれるんだ」
「素敵な曲ね」
僕は頷いた。「とても綺麗な曲だ。でもそれだけじゃない。複雑な曲でもある。何度も聴いているとそれがよくわかる。簡単に誰にでも演奏できる曲じゃない」と僕は言った。「『スタークロスト・ラヴァーズ』、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンがずっと昔に作った。一九五七年だったっけな」
「スタークロスト・ラヴァーズ」と島本さんは言った。「それはどういう意味なのかしらや」
「悪い星のもとに生まれた恋人たち。薄幸の恋人たち。英語にはそういう言葉があるんだ。ここではロミオとジュリエットのことだよ。エリントンとストレイホーンはオンタリオのシェイクスピア・フェスティヴァルで演奏するために、この曲を含んだ組曲を作ったんだ。オリジナルの演奏では、ジョニー・ホッジスのアルト・サックスがジュリエットの役を演奏して、ボール・ゴンザルヴェスのテナー・サックスがロミオの役を演奏した」
「悪い星のもとに生まれた恋人たち」と島本さんは言った。「まるでなんだか私たちのために作られた曲みたいじゃない?」
「僕らは恋人なのかな?」
「あなたはそうじゃないと思うの?」
僕は島本さんの顔を見た。彼女の顔にはもう微笑みは浮かんでいなかった。その瞳の中に微かな輝きのようなものが見えるだけだった。
「島本さん、僕は今の君のことを何も知らないんだよ」と僕は言った。「僕は君の目を見るたびにいつもそう思う。僕は君のことを何ひとつ知らないんだって。僕がかろうじて知っていると言えるのは、十二のときの君だけだ。近所に住んでいて、同じクラスにいた島本さんのことだけだ。それは今からもう二十五年も前の話なんだよ。ツイストが流行って、路面電車が走っていた頃のことだよ。カセット・テープもタンポンも新幹線もダイエット食品もなかった頃のことだ。大昔だよ。その頃の君について知っていた以外のことを、僕はほとんど何も知らないんだ」
「私の目にそう書いてあるのやあなたは私のことを知らないって」
「君の目には何も書かれていない」と僕は言った。「それは僕の目に書いてあるんだ。僕は君のことを何も知らないってね。それが君の目に映るだけだよ。君は何も気にしなくていい」
「ねえハジメくん」と島本さんは言った。「あなたに何も言えなくて、それは本当に悪いと思う。本当にそう思っているのよ。でもそれは仕方のないことなの。私にもどうしようもないことなの。だからもう何も言わないで」
「さっきも言ったように、これはただの独り言なんだ。だから気にしなくていい」
彼女はジャケットの襟に手をやって、魚のかたちをしたブローチを長いあいだ指で撫でていた。そして何も言わずにじっとピアノ・トリオの演奏を聴いていた。演奏が終わると彼女は拍手をして、カクテルをひとくち飲んだ。そして長いため息をついてから、僕の顔を見た。
「たしかに六カ月というのは長かったわね」と彼女は言った。「でもとにかく、たぶんこれからしばらくは、ここに来ることができると思う」
「マジック・ワードだ」と僕は言った。
「マジック・ワード?」と島本さんは言った。
「たぶん[#「たぶん」に傍点]としばらく[#「しばらく」に傍点]」と僕は言った。
島本さんは微笑みを浮かべて僕の顔を見ていた。それから小さなバッグから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
「君を見ていると、ときどき遠い星を見ているような気がすることがある」と僕は言った。「それはとても明るく見える。でもその光は何万年か前に送りだされた光なんだ。それはもう今では存在しない天体の光かもしれないんだ。でもそれはあるときには、どんなものよりリアルに見える」
島本さんは黙っていた。
「君はそこにいる」と僕は言った。「そこにいるように見える。でも君はそこにいないかもしれない。そこにいるのは君の影のようなものに過ぎないかもしれない。本当の君はどこか余所にいるのかもしれない。あるいはもうずっと昔に消えてなくなってしまっているのかもしれない。僕にはそれがだんだんわからなくなってくるんだ。僕が手を伸ばしてたしかめようとしても、いつも君は『たぶん』とか『しばらく』というような言葉ですっと体を隠してしまうんだ。ねえ、いつまでこういうのが続くんだろう」
「おそらく、当分」と彼女は言った。
「君には不思議なユーモアの感覚がある」と僕は言った。そして笑った。
島本さんも笑った。それは雨があがったあとに雲が音もなく割れて、そこから最初の太陽の光がこぼれてくるときのような微笑みだった。目の脇に温かい小さな皺がよって、それが僕に何か素敵なことを約束していた。「ねえハジメくん、あなたにプレゼントかあるのよ」
そして彼女は綺麗な包装紙にくるんで、赤いリボンをつけたそのプレゼントを僕に手渡してくれた。
「これはレコードのように見えるな」と僕はその重みを量りながら言った。
「ナット・キング・コールのレコード。昔二人でよく一緒に聴いたレコード。懐かしいでしょう。あなたに譲るわ」
「ありがとう。でも君は要らないの? これはお父さんの形見なんだろう」
「私はまだその他にも何枚も持っているから大丈夫。それはあなたにあげる」
僕は包装紙にくるまれ、リボンをつけたままのそのレコードをじっと見ていた。そのうちに人々のざわめきや、ピアノ・トリオの演奏が、まるで潮が急激に引いていくときのようにずっと遠のいていった。そこにいるのは、僕と島本さんの二人だけだった。それ以外のものは、ただの幻影に過ぎなかった。そこには一貫性もなければ、必然性もなかった。それははりぼての舞台装置のようなものに過ぎなかった。そこに存在する本当のものは、僕と島本さんだけだった。
「島本さん」と僕は言った。「どこかに行って、二人でこれを聴かないか」
「そうすることができたらきっと素晴らしいでしょうね」と彼女は言った。
「箱根に僕の小さな別荘があるんだ。そこには誰もいないし、ステレオもある。この時間なら車で飛ばせば一時間半で着ける」
島本さんは時計を見た。そして僕の顔を見た。「今から行くの?」
「そうだよ」と僕は言った。
彼女は何か遠くにあるものを見るときのように、目を細めて僕の顔を見ていた。「今はもう十時過ぎなのよ。これから箱根に行って帰ってきたらずいぶん遅くなるわよ。あなたはそれでもかまわないの?」
「僕はかまわない。君は?」
彼女はもう一度時計に目をやった。それから十秒ばかり彼女は目を閉じていた。目を開けたとき、彼女の顔には何か新しい種類の表情が浮かんでいた。彼女は目を閉じているあいだにどこか遠いところに行って、そこに何かを置いてから戻ってきたみたいに見えた。「いいわよ。行きましょう」と彼女は言った。
僕はマネージャーのような役目をしている従業員を呼んで、今日はもう引き上げるから、あとのことはやっておいてくれと言った。レジスターを閉めて、伝票を整理し、売上を銀行の夜間金庫に入れておけばいいのだ。僕はマンションの地下駐車場まで歩いていってBMWを出してきた。それから近くの公衆電話から妻に電話をかけ、今から箱根に行ってくると言った。
「今から?」と彼女はびっくりして言った。「どうして今から箱根になんか行かなくちゃならないの?」
「少しものを考えたいんだ」と僕は言った。
「ということは今日はもう帰ってこないの?」
「たぶん帰らない」
「ねえ」と妻は言った。「さっきのことはごめんなさい。いろいろと考えてみたんだけど、私が悪かったと思う。あなたが言ったことはたしかにそのとおりだと思う。株はもう全部ちゃんと処分しておいたわよ。だから家に帰ってきて」
「ねえ有紀子、僕は君のことを怒っているわけじゃないんだ。ぜんぜん怒ってなんかいない。さっきのことは気にしないでいい。僕はただいろんなことを考えたいんだ。一晩だけ僕に考えさせてくれ」
彼女はしばらく黙っていた。「わかったわ」と妻は言った。彼女の声はひどく疲れているよぅだった。「いいわよ。箱根に行ってらっしゃい。でも運転には気をつけてね。雨も降っているし」
「気をつける」
「私にはいろんなことがよくわからないのよ」と妻は言った。「私はあなたの邪魔をしてるんだと思う?」
「邪魔なんかしてないよ」と僕は言った。「君には何の問題もないし、責任もない。もし問題があるとしたら、それは僕の方だ。だからそのことはもう気にしないでいい。僕はただ考えたいだけなんだ」
僕は電話を切って、それから車で店に戻った。たぶん有紀子は昼食の席で我々が交わした会話のことをあれからずっと考えていたのだろう。僕が言ったことについて考え、自分が言ったことについて考えていたのだ。それは彼女の声の調子でわかった。それは疲れて、戸惑った声だった。そう思うと、僕は切ない気持ちになった。雨はまだ強く降りつづいていた。僕は島本さんを車に乗せた。
「君はべつにどこかに連絡しなくてもいいの?」と僕は島本さんに訊いた。
彼女は黙って首を振った。そして羽田から帰ってきたときと同じように窓ガラスに顔をつけるようにしてじっと外を見つめていた。
箱根までの道路はすいていた。僕は東名高速を厚木で下りて、小田原厚木道路を小田原までまっすぐに行った。スピード・メーターの針は常に130と140のあいだを行ったり来たりしていた。雨はときどきひどく激しくなったが、それは何度も通い馴れた道だった。僕はその途中にあるあらゆるカーヴと坂道を記憶していた。僕と島本さんは高速道路に入ってからはほとんど口をきかなかった。僕は小さな音でモーツァルトのクァルテットを聴き、運転に神経を集中していた。彼女は窓の外をじっと見なから、何かについて考え込んでいるようだった。ときどき彼女は僕の方に顔を向けて、じっと僕の横顔を見た。彼女にそんな風に見つめられると、僕の口の中はからからに乾いた。僕は気を落ちつけるために何度も唾を呑み込まなくてはならなかった。
「ねえハジメくん」と彼女は言った。そのとき僕らは国府津のあたりを走っていた。「お店の外ではあまりジャズを聴かないの?」
「そうだね。あまり聴かないな。だいたいいつもクラシックを聴いているね」
「どうして?」
「たぶんそれは僕がジャズという音楽を仕事にしてしまったからだと思うな。店の外に出ると、別のものが聴きたくなるんだ。クラシックの他にはロックを聴くこともある。でもジャズはほとんど聴かない」
「あなたの奥さんはどんな音楽を聴くの?」
「彼女はあまり自分から音楽を聴かないんだ。僕が聴いていればそれを一緒に聴いている。でも自分からはレコードをかけるようなことはほとんどない。たぶんレコードのかけかたも知らないんじゃないかと思う」
彼女はカセット・テープのケースに手を伸ばして、そのいくつかを手にとって眺めていた。
その中には娘たちと一緒に歌うための子供の歌のカセットもあった。『犬のおまわりさん』とか『チューリップ』とかが入っているやつだ。僕らは幼稚園の行き帰りによくそれをかけて歌った。島本さんはスヌーピーの絵のラベルがついたそのカセット・テープを珍しそうにしばらく見ていた。
それから彼女はまたじっと僕の横顔を見た。「ハジメくん」と彼女は少しあとで言った。「あなたが運転しているのをこうして横で見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンドルを思い切りぐっと回してみたくなるの。そんなことをしたら死んじゃうでしょうね」
「まあ確実に死ぬだろうね。130キロは出ているからね」
「私と一緒にここで死ぬのは嫌?」
「そういうのはあまり素敵な死に方じゃないな」と僕は笑って言った。「それにまだレコードだって聴いてない。僕らはレコードを聴きにきたんだろう」
「大丈夫よ。そんなことしないから」と彼女は言った。「ただちょっとそういうことを考えてみるだけ。ときどき」
まだ十月の初めだったが、箱根の夜はかなり冷え込んでいた。別荘に着くと、僕は電気をつけ、居間のガス・ストーブをつけた。そして戸棚からブランディー・グラスとブランディーを出した。しばらくして部屋が暖まると、僕らは昔のようにソファーに並んで座って、ナット・キング・コールのレコードをターンテーブルに載せた。ストーブの火が赤く燃えて、それかブランディー・グラスに映っていた。島本さんは両脚をソファーの上にあげ、腰の下に折り込むようにして座っていた。そして片手を背もたれに載せ、片手を膝の上に置いていた。昔と同じだ。あの頃の彼女はたぶん、あまり脚を見られたくなかったのだ。そしてその習慣が、手術で脚を治した今でもまだ残っているのだ。ナット・キング・コールは『国境の南』を歌っていた。その曲を聴くのは本当に久しぶりだった。
「実をいうと、子供の頃このレコードを聴きながら、僕は国境の南にはいったい何かあるんだろうといつも不思議に思っていたんだ」と僕は言った。
「私もよ」と島本さんは言った。「大きくなってから英語の歌詞を読んでみて、すごくがっかりしたわ。ただのメキシコの歌なんだもの。国境の南にはもっとすごいものがあるんじゃないかと思っていたの」
「たとえばどんなものが?」
島本さんは髪を手で後ろにまわして軽く束ねていた。「わからないわ。何かとても綺麗で、大きくて、柔らかいもの」
「何かとでも綺麗で、大きくて、柔らかいもの」と僕は言った。「それは食べることのできるものかな」
島本さんは笑った。その奥に白い歯をかすかに見ることができた。
「たぶん食べることはできないと思う」
「触ることはできると思う?」
「たぶん触ることはできると思う」
「たぶん[#「たぶん」に傍点]が多すぎるような気がするな」と僕は言った。
「そこはたぶん[#「たぶん」に傍点]の多い国なの」と彼女は言った。
僕は手を伸ばして、背もたれの上にある彼女の指に触れた。彼女の体に触れるのは本当に久しぶりのことだった。小松空港から羽田に向かう飛行機の中以来だった。僕がその指に触れると、彼女は顔をちょっと上げて僕を見た。それからまた目を伏せた。
「国境の南、太陽の西」と彼女は言った。
「なんだい、その太陽の西っていうのは?」
「そういう場所があるのよ」と彼女は言った。「ヒステリア・シベリアナという病気のことは聞いたことがある?」
「知らないな」
「昔どこかでその話を読んだことがあるの。中学校の頃だったかしら。何の本だったかどうしても思い出せないんだけれど……、とにかくそれはシベリアに住む農夫がかかる病気なの。ねえ、想像してみて。あなたは農夫で、シベリアの荒野にたった一人で住んでいるの。そして毎日毎日畑を耕しているの。見渡すかぎり回りにはなにもないの。北には北の地平線があり、東には東の地平線があり、南には南の地平線があり、西には西の地平線があるの。ただそれだけ。あなたは毎朝東の地平線から太陽がのぼると畑に出て働いて、それが真上に達すると仕事の手を休めてお昼ご飯を食べて、それか西の地平線に沈むと家に帰ってきて眠るの」
「それは青山界隈でバーを経営しているのとはずいぶん違った種頼の人生のように聞こえるね」
「まあね」と彼女は言って微笑んだ。そしてほんのちょっと首を傾げた。「ずいぶん違うでしょうね。それが何年も何年も、毎日続くの」
「でもシベリアでは冬には畑は耕せないよ」
「冬は休むのよ。もちろん」と島本さんは言った。「冬は家の中にいて、家の中で出来る仕事をしているの。そして春が来ると、外に出ていって畑仕事をするの。あなたはそういう農夫なのよ。想像してみて」
「しているよ」と僕は言った。
「そしてある日、あなたの中で何かが死んでしまうの」
「死ぬって、どんなものが?」
彼女は首を振った。「わからないわ。何かよ。東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩きつづけて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリア・シベリアナ」
僕は大地につっぷして死んでいくシベリアの農夫の姿を思い浮かべた。
「太陽の西にはいったい何があるの?」と僕は訊いた。
彼女はまた首を振った。「私にはわからない。そこには何もないのかもしれない。あるいは何か[#「何か」に傍点]があるのかもしれない。でもとにかく、それは国境の南とは少し違ったところなのよ」
ナット・キング・コールが『プリテンド』を歌うと、島本さんも小さな声で昔よくやったようにそれに合わせて歌った。
ブリテンニュアパピーウェニャブルウ
イティイズンベリハートゥドゥー
「ねえ島本さん」と僕は言った。「君かいなくなってから、僕はずっと君のことを考えていたんだ。約半年間だよ。六カ月近く毎日、朝から晩まで僕は君のことを考えていた。考えるのはもうやめようと思った。でもどうしてもやめることができなかった。そして最後にこう思ったんだ。僕はもう君にどこにも行って欲しくない。僕は君がいなくてはやっていけない。僕はもう二度と君の姿を失いたくない。しばらく[#「しばらく」に傍点]のあいだなんていう言葉はもう二度と聞きたくない。たぶん[#「たぶん」に傍点]というのも嫌だ。僕はそう思ったんだ。しばらくのあいだ会えないと思う、と言って君はどこかに消えてしまう。でも本当にいつか君が帰ってくるのかどうか、そんなことは誰にもわからない。確証なんて何もないんだよ。君はもう二度と戻ってこないかもしれない。僕はもう君に会えないまま人生を終えてしまうことになるかもしれない。そう思うと、僕はなんだかやりきれない気持ちになった。僕のまわりにある何もかもが意味のないものに思えた」
島本さんは何も言わずに僕を見ていた。彼女の顔にはずっと同じかすかな微笑みが浮かんでいた。それはなにものにも決して乱されることのない静かな微笑みだった。でも僕はそこに彼女の感情というものを読み取ることかできなかった。その微笑みは、その向こう側に潜んでいるはずのものの姿かたちについて、何ひとつとして僕に教えてはくれなかった。その微笑みを前にしていると、僕は一瞬自分の感情までをも見失ってしまいそうになった。僕は自分がいったいどこにいるのか、自分がどちらを向いているのか、まったくわからなくなってしまった。でも僕は時間をかけて、自分が口にするべき言葉をみつけだした。
「僕は君のことを愛している。それはたしかだ。僕が君に対して抱いている感情は、他のなにものをもってしても代えられないものなんだ」と僕は言った。「それは特別なものであり、もう二度と失うわけにはいかないものなんだ。僕はこれまでに何度か君の姿を見失ってきた。でもそれはやってはいけないことだったんだ。間違ったことだった。僕は君の姿を見失うべきではなかった。この何カ月かのあいだに、僕にはそれがよくわかったんだ。僕は本当に君を愛しているし、君のいない生活に僕はもう耐えることができない。もうどこにも行ってほしくない」
僕が話し終えると、彼女はしばらく何も言わずに目を閉じていた。ストーブの火が燃え、ナット・キング・コールは古い歌をうたい続けていた。僕は何かをつけ加えて言おうと思った。でももう言うべき言葉はなかった。
「ねえバジメくん、よく聞いてね」とずいぶんあとで島本さんは言った。「これはとても大事なことだから、よく聞いて。さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だからあなたには私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの。もしあなたがこのままの状況を続けるのでもかまわないというのなら、それは続けられると思う。いつまでそれが続けられるかは私にもわからないけれど、私はそれを続けるためにはできるかぎりのことをするわ。私はあなたに会いに来られるときにはあなたに会いに来る。そのためには私も私なりに努力をしているのよ。でも会いに来られないときには、来られないの。いつでも好きなときに会いに来るというわけにはいかないの。それははっきりしているのよ。でももしあなたがそういうのは嫌だ、二度と私にどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私のことを隅から隅まで全部。私がひきずっているものや、私の抱え込んでいるものも全部。そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの?」
「よくわかってるよ」と僕は言った。
「それでもあなたは本当に私と一緒になりたいの?」
「僕はもう既にそれを決めてしまったんだよ、島本さん」と僕は言った。「僕は君のいないあいだに何度も何度もそのことについては考えたんだ。そして僕はもう心を決めてしまっているんだよ」
「でもねバジメくん、あなたの奥さんと二人の娘さんはどうするのやあなたは奥さんも娘さんたちのことも愛しているんでしょう。あなたはその人たちをとても大事にしているはずよ」
「僕は彼女たちのことを愛してるよ。とても愛している。そしてとても大事にしている。それはたしかに君の言うとおりだよ。でも僕にはわかるんだ——それだけでは足りないんだということがね。僕には家庭があり、仕事がある。僕はどちらにも不満を持っていないし、これまでのところはどちらもとてもうまく機能してきたと思う。僕は幸せだったと言ってもいいと思う。でもね、それだけじゃ足りないんだ。僕にはそれがわかる。一年ほど前に君と会うようになってから、僕にはそれかよくわかるようになったんだ。ねえ島本さん、いちばんの問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢えて、乾いているんだ。その部分を埋めることは女房にもできないし、子供たちにもできない。それができるのはこの世界に君一人しかいないんだ。君といると、僕はその部分が満たされていくのを感じるんだ。そしてそれが満たされて初めて僕は気がついたんだよ。これまでの長い歳月、どれほど自分が飢えて渇いていたかということにね。僕にはもう二度と、そんな世界に戻っていくことはできない」
島本さんは両腕を僕の体に回して、そっともたれかかった。彼女の頭は僕の肩の上に載せられていた。僕は彼女の柔らかい肉を感じることができた。それは僕の体に温かく押しつけられていた。
「私もあなたのことを愛しているのよ、ハジメくん。私は生まれてからあなた以外の人を愛したことなんてないのよ。私がどれほどあなたのことを愛しているか、あなたにはきっとわからないと思う。私は十二のときからずっとあなたのことを愛していたのよ。誰かに抱かれていでも、いつもあなたのことを思っていた。だからこそ私はあなたに会いたくなかったの。あなたに一度会ってしまうと、もうどうしようもなくなってしまいそうな気がしたの。でも会わないわけにはいかなかった。本当にあなたの顔をみたら、それだけですぐに帰ってしまおうと思っていたのよ。でも実際にあなたの顔を見たら、声をかけないわけにはいかなかったの」、島本さんは僕の一肩の上に頭をそっと休めたままそう言った。「私は十二のときから、もうあなたに抱かれたいと思っていたのよ。でもあなたはそんなこと知らなかったでしょう?」
「知らなかった」と僕は言った。
「私は十二のときからもう、裸になってあなたと抱き合いたいと思っていたのよ。あなたはそんなことも知らなかったでしょう?」
僕は彼女の体を抱きしめて、口づけした。彼女は僕の腕の中でじっと目を閉じて、身動きひとつしなかった。僕の舌は彼女の舌と絡み合い、僕は彼女の乳房の下に心臓の鼓動を感じた。それは激しく、暖かい鼓動だった。僕は目を閉じて、そこにある彼女の赤い血のことを思った。僕は彼女の柔らかな髪を撫で、その匂いをかいだ。彼女の両手は僕の背中の上を、何かを求めるように彷徨っていた。レコードが終わって、ターンテーブルが止まり、アームはアーム・レストに戻った。ふたたび雨音だけが僕らのまわりを取り囲んでいた。少しあとで島本さんは目を開けて、僕の顔を見た。「ハジメくん」と彼女は小さな声で囁くように言った。「本当にそれでいいの? 本当に私のことを取るの? あなたは私のために何もかもを捨ててしまっていいの?」
僕は頷いた。「それでいい。もう決めたことなんだ」
「でもあなたはもし私に出会わなかったなら、あなたの現在の生活に不満やら疑問を感じることもなく、そのまま平穏に生きていたんじゃないかしら。そうは思わない?」
「あるいはそうかもしれない。でも現実に僕は君に会ったんだ。そしてそれはもうもとには戻せないんだよ」と僕は言った。「君が前に言ったように、ある種のことはもう二度と元には戻らないんだ。それは前にしか進まないんだ。島本さん、どこでもいいから、二人で行けるところまで行こう。そして二人でもう一度始めからやりなおそう」
「バジメくん」と島本さんは言った。「服を脱いで体を見せてくれる?」
「僕が脱ぐの?」
「そうよ。まずあなたが服を全部脱ぐの。そしてまず私があなたの裸の体を見るの。いや?」
「いいよ。君がそうしてほしいのなら」と僕は言った。僕はストーブの前で服を脱いだ。僕はヨット・パーカを脱ぎ、ポロシャツを脱ぎ、ブルージーンを脱ぎ、靴下を脱ぎ、Tシャツを脱ぎ、パンツを脱いだ。そして島本さんは裸になった僕に床の上に両膝をつかせた。僕のペニスは硬く大きく勃起していて、それは僕を気恥ずかしくさせた。彼女は少し離れたところから僕の体をじっと見ていた。彼女はまだジャケットも脱いでいなかった。
「僕だけが裸になるというのはなんだか変なもんだな」と僕は笑って言った。
「とても素敵よ、ハジメくん」と島本さんは言った。そして彼女は僕のそばに来て、僕のペニスをそっと指で包み、僕の唇にキスした。それから彼女は僕の胸に手をやった。彼女はとても長い時間をかけて僕の乳首を舐め、陰毛を撫でた。僕の臍に耳をつけ、睾丸を口にふくんだ。彼女は僕の体じゅうにキスした。彼女は僕の足の裏にまでキスをした。彼女はまるで時間そのものをいとおしんでいるように見えた。時間そのものを撫でたり、吸ったり、舐めたりしているように見えた。
「君は服を脱がないの?」と僕は訊いた。
「もっとあとで」と彼女は言った。「私はあなたの体をこのままずっと眺めて、もっと好きに舐めたり触ったりしていたいの。だってもし私がここで裸になったら、あなたはすぐに私の体を触ろうとするでしょう? まだ駄目と言っても我慢できないでしょう、たぶん」
「たぶんね」
「そういう風にしたくないの。私は急ぎたくないのよ。だってここに来るまでにこんなに長くかかったんだもの。私はまずあなたの体を全部この目で見て、この手で触って、この舌で舐めたいの。ひとつひとつ時間をかけてたしかめたいのよ。まずそれを済ませないと、私はそこから先に進めないの。ねえハジメくん、私のすることがもし何か変な風に見えたとしでも、それはあまり気にしないでね。私はそうすることが必要だからそうしているだけなのよ。何も言わないで、私にそうさせておいてね」
「それはかまわないよ。好きなだけ好きなことをすればいい。でもそんなにじろじろと眺められるとなんだか不思議な気がするな」と僕は言った。
「だってあなたは私のものなんでしょう?」
「そうだよ」
「だったら恥ずかしいことなんてないでしょう?」
「たしかにそうだ」と僕は言った。「きっとまだよく馴れてないんだろう」
「でも、もう少しだけ我慢してね。こうするのが長いあいだの私の夢だったんだから」と島本さんは言った。
「こんな風に僕の体を眺めるのが君の夢だったの? 君の方は服を着たまま僕の裸を見たり触ったりすることが」
「そう」と彼女は言った。「私は昔からずっとあなたの体のことを想像してたの。あなたの裸ってどんなだろうって。それはどんな恰好をしたおちんちんで、どれくらい硬く、どれくらい大きくなるんだろうって」
「どうしてそんなこと考えたの?」
「どうして?」と彼女は言った。「どうしてそんなことを訊くの? 私はあなたのことを愛しているって言ったでしょう。好きな男の裸のことを考えて何がいけないの。あなたは私の裸のことを考えなかった?」
「考えたと思う」と僕は言った。
「私の裸の体を思い浮かべてマスターベーションしたことないの?」
「あると思う。中学校や高校の頃に」と言ってから僕は訂正した。「いや、それだけじゃないな。ついこのあいだもやったよ」
「私だって同じことしたわ。あなたの裸の体を思い浮かべて。女の人だってそういうことしないわけじゃないのよ」と彼女は言った。
僕は彼女の体をもう一度抱き寄せてゆっくりと口づけした。彼女の舌が僕の口の中にもぐり込んできた。「愛してるよ、島本さん」と僕は言った。
「愛してるわ、ハジメくん」と島本さんは言った。「あなたの他に愛した人は誰もいない。ねえ、もう少しのあいだあなたの体を見てていい?」
「いいよ」と僕は言った。
彼女は僕のペニスと睾丸を手のひらでそっと包んだ。「素敵」と彼女は言った。「このまませんぶ食べてしまいたい」
「食べられると困る」と僕は言った。
「でも食べてしまいたい」と彼女は言った。彼女はまるで正確な重さを測るように、僕の睾丸をいつまでもじっと掌に載せていた。そしてとても大事そうに僕のペニスをゆっくりと舐めて吸った。それから僕の顔を見た。「ねえ、いちばん最初は私の好きなようにさせてくれる? 私のやりたいようにさせてくれる?」
「かまわないよ。なんでも君の好きなようにしていい」と僕は言った。「本当に食べたりしなければべつに何をしてもかまわないよ」
「ちょっと変なことするけど気にしないでね。恥ずかしいから、そのことについては何も言わないでね」
「何も言わない」と僕は言った。
彼女は僕に床に膝をつかせたまま、左手で僕の腰を抱いた。そして彼女はワンピースを着たまま片手でストッキングを脱ぎ、パンティーを取った。それから右手で僕のペニスと睾丸を持ち、舌で舐めた。そしてスカートの中に自分の手を入れた。そして僕のペニスを吸いながら、その手をゆっくりと動かし始めた。
僕は何も言わなかった。彼女には彼女のやり方があるのだ。僕は彼女の唇と舌と、スカートの中に入れられた手のゆるやかな動きを見ていた。そしてあのボウリング場の駐車場に停めたレンタカーの中で、硬く白くなっていた島本さんのことをふと思い出した。僕はそのときの彼女の瞳の奥に見たもののことをまだはっきりと覚えていた。その瞳の奥にあったものは、地底の氷河のように硬く凍りついた暗黒の空間だったのだ。そこにはあらゆる響きを吸いこみ、二度と浮かびあがらせることのない深い沈黙があった、沈黙の他には何もなかった。凍りついた空気はどのような種類の物音をも響かせることはなかった。
それは僕が生まれて初めて目にした死の光景だった。僕はそれまでに身近な誰かを亡くしたという体験を持たなかった。目の前で誰かが死んでいくのを目にしたこともなかった。だから死というのがいったいどういうものなのか、僕にはそれまで具体的に思い浮かべることができなかった。でもそのとき、死はありのままの姿で僕のすぐ前にあった。僕の顔からほんの数センチのところにそれは広がっていた。これが死というものの姿なのだ、と僕は思った。お前もやはりいつかはここに来ることになるのだと彼らは語っていた。誰もがやがては、この暗黒の根源の中を、共鳴を失った沈黙の中を、どこまでもどこまでも孤独のうちに落ちていくことになるのだ。僕はその世界を前にして息苦しくなるほどの恐怖を感じた。この暗黒の穴には底というものがないと僕は思った。
僕はその凍りついた暗黒の奥に向かって彼女の名を呼んだ。島本さん、と僕は何度も大きな声で呼んだ。でも僕の声は果てしのない虚無の中に吸い込まれていった。僕がどれだけ呼びかけても、彼女のその瞳の奥にあるものは、微動だにしなかった。彼女は相変らずあの奇妙なすきま風のような音のする息を続けていた。その規則的な息づかいは、彼女がまだこちらの世界にいることを僕に教えていた。でもその瞳の奥にあるのは、すべてが死に絶えたあちら側の世界だった。
彼女の瞳の中のその暗黒をじっと覗き込みながら、島本さんの名前を呼んでいるうちに、僕はだんだん、自分の体がそこに引きずり込まれていくような感覚に襲われた。まるで真空の空間がまわりの空気を吸い込むように、その世界は僕の体を引き寄せていた。僕にはその確かな力の存在を今でも思い出すことができた。そのとき、彼らは僕をもまた求めていたのだ。
僕はしっかりと目を閉じた。そしてその記憶を頭から追い払った。
僕は手を伸ばして島本さんの髪を撫でた。僕は彼女の耳を触り、彼女の額に手をあてた。島本さんの体は温かく、柔らかかった。彼女はまるで生命そのものを吸い取ろうとしているかのように、僕のペニスを吸いつづけた。彼女の手はまるで何かをそこに伝えようとするかのように、スカートの下にある自分の性器を撫でていた。少しあとで僕は彼女の口の中に射精し、彼女は手を動かすのをやめて目を閉じた。そして僕の精液を最後の一滴まで舐めて吸った。
「ごめんね」と島本さんは言った。
「謝ることはないよ」と僕は言った。
「最初はこうしたかったの」と彼女は言った。
「恥ずかしいけど、一度こうしないことには、どうしても気持ちが落ちつかなかったの。これは私たちにとっての儀式みたいなものなの。わかる?」
僕は彼女の体を抱いた。そしてその頬にそっと頬をつけた。彼女の頻にはたしかな温かみが感じられた。僕は髪を上にあげて、その耳に口づけした。それから僕は彼女の目を覗き込んでみた。僕は彼女の瞳に映った僕の顔を見ることができた。そしてその奥にはいつもの底の見えないほどの深い泉があった。そしてそこには仄かな光が輝いていた。それは生命の灯火のように僕には感じられた。いつかは消えてしまうかもしれないけれど、今はたしかにそこにある灯火だった。彼女は僕に微笑んだ。彼女が微笑むといつものように小さな殻が目の脇に寄った。僕はその小さな皺にキスをした。
「今度はあなたが私の服を脱がせて。そして今度はあなたの好きなようにして。さっきは私があなたを好きなようにしたから、次はあなたが私のことを好きにしていいのよ」
「ごく普通のがいいんだけど、それでいいかな? あるいは僕には想像力が欠けているのかもしれないけれど」と僕は言った。
「いいわよ」と島本さんは言った。「普通のは私も好きよ」
僕は彼女のワンピースを脱がし、下着を取った。そして僕は彼女を床に寝かせ、体じゅうにキスをした。彼女の体を隅から隅まで眺め、そこに手を触れ、唇をつけた。僕はそれを確認し、記憶した。僕はそれにたっぷりと長い時間をかけた。これだけ長い年月をかけてやっとここまで来たのだ。僕も彼女と同じように急ぎたくなかった。僕は我慢できるところまで我慢して、もうそれ以上我慢できないというところまで来てから、ゆっくりと彼女の中に入った。
僕らが眠ったのは夜明け前だった。僕らはその床の上で何度か交わった。僕らは優しく交わり、それから激しく交わった。途中で一度、僕が中に入っているときに、彼女は感情の糸が切れてしまったみたいに激しく泣いた。そして拳で僕の背中や肩を強く叩いた。そのあいだ僕は彼女の体を強く抱きしめていた。僕が抱きしめていないと、島本さんはそのままばらばらにほどけてしまいそうに見えた。僕は何かをなだめるようにその背中をずっと撫でていた。僕は彼女の首筋に口づけをし、髪を指で梳いた。彼女はもうクールで自己抑制の強い島本さんではなかった。長い年月、彼女の心の奥底で硬く凍りついていたものが少しずつ溶けて表面に姿を見せ始めているようだった。僕はその息吹と遠い胎動を感じ取ることができた。僕は彼女をしっかりと抱きしめ、その震えを僕の体の中に受け入れていった。このようにして彼女は少しずつ僕のものになろうとしているのだ、と僕は思った。もう僕はここから離れるわけにはいかない。
「僕は君のことを知りたいんだ」と僕は島本さんに言った。「僕は君の何もかもを知りたい。君がこれまでどうやって生きてきたのが、今はどこに住んで何をしているのか。君は結婚しているのかいないのか。そういうことを何から何まで全部知りたいんだ。僕は君が僕に対してたとえどんなことであれ何か秘密を持っていることに、これ以上もう耐えられそうにない」
「明日になったらね」と島本さんは言った。「明日になったら、何もかも話してあげるわ。だからそれまでは何も訊かないで。今日はまだ何も知らないままでいて。もし私がここで話してしまったら、あなたはもう永久にもとに戻れなくなってしまうのよ」
「もうどうせ僕はもとには戻れないよ、島本さん。それにひょっとしたら明日は来ないかもしれないんだ。そしてもし明日が来なかったら、僕は君が胸に抱えていたことを何も知らないままに終わってしまうことになる」と僕は言った。
「本当に明日が来ないといいんだけれど」と島本さんは言った。「もし明日がこなければ、あなたは何も知らないままでいられるのよ」
僕が何かを言おうとすると、彼女は僕に口づけしてそれをとめた。
「明日なんて禿ワシに食べられてしまえばいいのよ」と島本さんは言った。「明日を食べるのは禿ワシでいいのかしら」
「いいよ。ちゃんと合ってる。禿ワシは芸術も食べるけれど、明日も食べるんだ」
「禿タカは何を食べるんだっけ?」
「名もなき人々の死体」と僕は言った。「禿ワシとはぜんぜん達うんだ」
「禿ワシは芸術と明日を食べるのね?」
「そうだよ」
「なんだか素敵な組み合わせね」
「そしてデザートに岩波新書の目録を食べるんだ」
島本さんは笑った。「でもとにかく、明日よ」と彼女は言った。
明日はもちろんやってきた。でも目が覚めたとき、僕は一人きりだった。もう雨はすっかりあがっていて、寝室の窓からは透明な明るい朝の光がさしこんでいた。時計は九時過ぎを指していた。ベッドには島本さんの姿はなかった。僕の隣の枕は彼女の頭のかたちを残したように微かにくぼんでいた。彼女の姿はどこにも見えなかった。僕はベッドを出て居間に行って彼女の姿を探した。台所を探し、子供部屋や浴室を覗いてみた。でも彼女はどこにもいなかった。
彼女の服もなかったし、玄関からは彼女の靴も消えていた。僕は深呼吸をして、自分をもう一度現実の中に溶け込ませた。でもその現実の中には何かしら見慣れない妙なところがあった。
それは僕が考えていた現実とは違ったかたちを取った現実だった。それはあってはならない現実なのだ。
僕は服を着て、家の外に出てみた。そこにはBMWが昨夜そこに停めたときのまま停まっていた。あるいは島本さんは朝早く目が覚めてひとりで散歩に出たのがもしれなかった。僕は家のまわりを歩いて、彼女の姿を探してみた。それから車に乗ってあたりの道をしばらくぐるぐると走ってみた。表の道路に出て、ずっと宮ノ下のあたりまで行ってみた。しかし島本さんの姿はどこにも見えなかった。家に帰っても、島本さんは戻ってはいなかった。書き置きのようなものがないかと思って、僕は家の中を隅から隅まで捜し回ってみた。でもそんなものはどこにもなかった。彼女がそこにいたという痕跡すらなかった。
島本さんの姿の見えない家の中はひどくがらんとして息苦しかった。空気の中には何かざらざらとした粒子のようなものが混じっていて、息を吸い込むとそれが喉に引っかかるように感じられた。それから僕はレコードのことを思い出した。彼女が僕にくれたナット・キング・コールの古いレコードだ。でもどれだけ探してみてもそのレコードは見当たらなかった。島本さんは出ていくときにそれを一緒に持っていってしまったようだった。
島本さんはまた僕の前から消えてしまった。今度はたぶん[#「たぶん」に傍点]もしばらく[#「しばらく」に傍点]もなく。