僕はその日の四時前に東京に帰った。ひょっとしたら島本さんが戻ってくるかもしれないと思って、僕は箱根の家で昼過ぎまで待っていた。何もせずにじっとしているのが辛かったから、台所の掃除をしたり、置いてある衣類の整理をしたりして時間を潰した。沈黙は重く、ときおり聞こえてくる鳥の声や、車の排気音も、どことなく不自然で不均一だった。まわりの音という音が、何かの力で無理に歪められたり、あるいは押し潰されたりしてしまったみたいに聞こえた。僕はそんな中で何かが起こるのを待っていた。何かが起こらなくてはならないはずだ、と僕は思った。こんなままでものごとが終わってしまうわけはないのだから。
でも何も起こらなかった。島本さんは、一度こうと決めたことを、時間が経ってから思いなおしたりする人間ではないのだ。東京に戻らなくてはならないと僕は思った。もし島本さんか仮りに僕に連絡をしてくるとすれば——それはほとんどありえないことかもしれないけれど——それはおそらく店の方にくるはずだった。いずれにせよこれ以上ここにいる意味はたぶん何もない。
車を運転しているあいだ、僕は何度も無理やり運転に意識を戻さなくてはならなかった。何回か信号を見落としそうになったし、曲がる道を間違え、車線を間違えた。店の駐車場に車を入れてから、僕は公衆電話で家に電話をかけた。有紀子に戻ったことを告げ、そしてそのまま仕事に出ると言った。有紀子はそれについては何も言わなかった。
「遅いからずっと心配してたのよ。電話くらいしてくれてもいいでしょう」と彼女は硬い乾いた声で言った。
「大丈夫だよ。何も心配しなくていい」と僕は言った。自分の声が彼女の耳にどんな風に響いているのか、僕には見当もつかなかった。「時間がないからこのままオフィスの方に行って、少し帳簿を整理して、それから店に行くよ」
僕はオフィスに行って机の前に座り、何もせずに一人で夜までの時間を過ごした。そして昨夜の出来事について考えた。おそらく島本さんは僕が寝てしまったあとも一陣もせずに起きていて、夜明けとともに家を出ていったのだろう。どうやってそこから帰ったのかはわからない。表通りまではかなりの道のりがあったし、表通りに出てもそんな朝早くに箱根の山の中でバスやタクシーを見つけるのは至難のわざだったはずだ。それに彼女はハイヒールを履いていたのだ。
どうして島本さんは僕の前から消えてしまわなくてはならなかったのだろう? それは僕が車を運転しながらずっと考えていたことだった。僕は彼女を取ると言い、彼女は僕を取ると言った。そして僕らは何の留保もなく抱き合ったのだ。それにもかかわらず、彼女は僕をあとに残して、ひとことの説明もなく一人でどこかに去っていってしまった。島本さんは僕にくれると言っていたレコードまで一緒に持っていってしまったのだ。そのような彼女の行為が意味するものを、僕はなんとか推し量ろうとした。そこには何らかの意味があり、理由があるはずだった。島本さんはその場の思いつきで行動するようなタイプではない。でも僕には、何かを論理的につきつめて考えるということができなくなってしまっていた。あらゆる思考の糸が僕の頭から音もなくこぼれ落ちていった。それでも無理に何かを考えようとすると、頭の奥が鈍く疼いた。僕は自分がひどく疲れていることに気づいた。僕は床に腰を下ろし、壁にもたれ、目を閉じた。一度目を閉じてしまうと、開けることができなくなってしまった。僕にできるのはただ思い出すことだけだった。考えることを放棄し、エンドレス・テープを回すように、ただ何度も何度も事実だけを繰り返して思い出すこと。僕は島本さんの体を思い出した。目を閉じて、ストーブの前に横になった彼女の裸の体を、そしてそこにあったものをひとつひとつ思い出していった。彼女の首や乳房や脇腹や陰毛や性器や背中や腰や脚を。それらの像はあまりにも間近であり、あまりにも鮮明であった。ある場合には現実よりも遥かに間近であり鮮明であった。
そのうちに僕は、狭い部屋の中でそんな生々しい幻影に取り囲まれていることに耐えきれなくなってきた。僕はオフィスのある建物を出て、その辺をあてもなく歩き回った。それから店に行って、洗面所で髭を剃った。考えてみれば僕は朝から顔も洗っていなかったのだ。おまけに昨日と同じヨット・パーカをまだ着ていた。従業員たちはとくに何も言わなかったけれど、妙な顔でちらちらと僕を見た。でも僕は家に帰りたくなかった。今家に帰ったら、そして有紀子を前にしたら、僕はそのまま洗いざらい何もかも話してしまいそうだった。僕が島本さんに恋をしていて、彼女と一夜を過ごして、家も娘たちも仕事も何もかもをすべて捨ててしまおうとしていたことを。
本当は打ち明けてしまうべきなのだろうと思った。でも僕にはそれができなかった。今の僕には何が正しくて何が正しくないかを判断する力がなかった。自分の身に起ったことを正確に把握することさえできなかった。だから家には帰らなかった。僕は店に出て、島本さんが来るのを待った。彼女が来るはずのないことはよくわかっていた。でもそうしないわけにはいかなかったのだ。僕はバーに行って彼女の姿を捜し求め、それから『ロビンズ・ネスト』のカウンターに座って閉店の時間まで空しく彼女を待ちつづけた。そこにいた何人かの常連客といつものように話をした。でも僕はほとんど何も話を聞いていなかった。話の相づちを打ちながら、ずっと島本さんの体のことを思い出していた。彼女の性器がどんなに優しく僕を迎え入れてくれたかを思い出していた。そしてそのときに彼女がどんな風に僕の名前を呼んだがを思い出していた。そして電話のベルが鳴るたびに胸がどきどきした。
店が終わってみんなが引きあげてしまったあとも、僕は一人でカウンターに座って酒を飲んでいた。どれだけ酒を飲んでも、まったく酔いがまわらなかった。むしろ逆にどんどん頭が覚めていった。手のつけようがないな、と僕は思った。家に帰ったとき、時計の針はもう二時をまわっていたが、有紀子は起きて僕を待っていた。僕がうまく寝つけないまま台所のテーブルに座ってウィスキーを飲んでいると、彼女もグラスを持ってきて同じものを飲んだ。
「何か音楽をかけて」と有紀子は言った。僕は目についたカセット・テープをデッキに入れてスイッチを押し、子供を起こさないようにヴォリュームを下げた。そして僕らはテーブルをはさんでしばらく何も言わずにそれぞれのグラスの中の酒を飲んでいた。
「あなたには私の他に好きな女の人がいるんでしょう?」と有紀子は僕の顔をじっと見なから言った。
僕は頷いた。有紀子はその言葉をこれまで何度も何度も頭の中で繰り返していたんだろうなと僕は思った。その言葉にはくっきりとした輪郭と重みがあった。彼女の声の響きの中に僕はそれを感じることができた。
「そしてあなたはその人のことが好きなのね。ただの遊びじゃなくて」
「そうだよ」と僕は言った。「遊びというようなものじゃない。でもそれは君が考えているようなのとは少し違うんだ」
「私が何を考えているかあなたにわかるの?」と彼女は言った。
「私の考えていることが本当にあなたにわかっていると思う?」
僕は黙っていた。僕には何を言うこともできなかった。有紀子もずっと黙っていた。音楽が小さな音で流れていた。ヴィヴァルディかテレマンが、そういう音楽だった。僕にはそのメロディーを思い出すことができなかった。
「私か何を考えているか、あなたには、おそらく、わからない、と思う」と有紀子は言った。彼女は子供に何かを説明するときのようにゆっくりと言葉をひとつひとつ丁寧に発音していた。「あなたには、きっとわからない」
彼女は僕を見ていた。でも僕か何も言わないことがわかると、グラスを取ってウィスキーを一口だけ飲んだ。そして首をゆっくり一度振った。
「ねえ、私だってそんな馬鹿じゃないのよ。私はあなたと一緒に暮らして、あなたと一緒に寝ているのよ。しばらく前からあなたに好きな女の人がいることくらいはわかっていたわ」
僕は何も言わずに有紀子を見ていた。
「でも私はあなたのことを責めているんじゃないのよ。誰かを好きになったのなら、それはそれで仕方ないと思うわよ。好きになったものは、好きになったものなんだもの。あなたはきっと私だけじゃ足りなかったのよ。それも私には私なりに理解できるの。私たちはこれまでずっとうまくやってきたし、あなたは私にはとても良くしてくれた。私はあなたと暮らしてとても幸せだった。そして今でもあなたは私のことを好きなんだと思う。でも結局のところ私はあなたには十分な女ではなかったのよ。そのことは私にもなんとなくわかっていたし、いつかきっとこういうことが起こるだろうとは思っていたの。仕方ないわよ。だから他の女の人を好きになったことで、私はあなたを責めているわけじゃないのよ。本当のことを言うと、怒っているわけでもないのよ。不思議だけど、そんなに腹も立たないの。私はただ辛いだけよ。ものすごく辛いだけよ。そういうことになったらたぶん辛いだろうなとは想像してはいたけれど、想像をはるかに越えて辛いわね」
「悪かったと思う」と僕は言った。
「謝ることはないわ」と彼女は言った。「もしあなたが私と別れたいのなら、べつに別れてもいいのよ。何も言わずに別れるわ。私と別れたい?」
「わからない」と僕は言った。「ねえ僕の説明を聞いてくれないかな?」
「説明っていうと、あなたとその女の人のこと?」
「そう」と僕は言った。
有紀子は首を振った。「その女の人の話なんて何も聞きたくない。私にこれ以上辛い思いをさせないで。あなたとその人とがどんな関係で何をしていようと、そんなことはもうどうでもいいのよ。そんなことは何も知りたくない。私が知りたいのは、あなたが私と別れたいかどうかっていうことだけよ。家だってお金だって何もいらない。子供たちが欲しいのならあげる。本当よ、真剣に言ってるのよ、これは。だから別れたいのなら、ただ別れたいって言って。私が知りたいのはそれだけなの。それ以外のことは何も聞きたくなんかない。イエスかノオかどちらか」
「わからない」と僕は言った。
「私と別れたいのかどうか、あなたにはわからないということ?」
「違う。僕に答えることができるかどうかということ自体がわからないんだ」
「それはいつになったらわかるの?」
僕は首を振った。
「じゃあゆっくり考えなさい」と有紀子はため息をついてから言った。「私は待つから大丈夫よ。ゆっくりと時間をかけて考えて決めなさい」
その夜から僕は居間のソファーに布団を敷いて眠った。子供たちがときどき夜中に起きてやってきて、お父さんはどうしてそんなところで寝ているのと訊いた。父さんはこのごろ鼾がうるさいんで、しばらくのあいだお母さんとは別の部屋で寝ることにしたんだよ、そうしないとお母さんが眠れなくなっちゃうからさ、と僕は説明した。娘たちのどちらかが僕の布団の中にもぐり込んでくることもあった。そういうときには僕はソファーの上で娘をしっかりと抱いた。ときどき寝室から有紀子が泣いている声が聞こえてくることもあった。
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それから二週間ばかり、僕は果てしない記憶の再現の中に住みつづけた。僕は島本さんと過ごした最後の夜に起こったことを、ひとつひとつ思い出し、その中に何かの意味を見いだそうとつとめた。そこに何かのメッセージを読み取ろうとした。僕は僕の腕に抱かれていた島本さんのことを思い出した。白いワンピースの裾から入れられていた彼女の手のことを思い出した。ナット・キング・コールの歌と、ストーブの火のことを僕は思い出した。彼女がそのときに口にしたひとことひとことを再現してみた。
「さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ」と島本さんはその中で語っていた。「私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの」
「僕はもう既にそれを決めてしまったんだよ、島本さん」とその中で僕は語っていた。「君のいないあいだに何度も何度もそのことについては考えたんだ。そして僕はもう心を決めてしまっているんだよ」
僕は車の助手席からじっと僕を見ていた島本さんの目を思い出した。ある種の激しさを含んだその視線は、僕の頬にまだくっきりと焼きついているように思えた。それはおそらく視線以上のものだった。そのときの彼女の漂わせていた死の気配のようなものを、今でははっきりと感じることができた。彼女は本当に死ぬつもりでいたのだ。おそらく彼女は僕と二人で死ぬために、箱根までやってきたのだろう。
「そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかってるの? それが何を意味しているかもわかっているの[#「それが何を意味しているかもわかっているの」に傍点]?」
そう言ったとき、島本さんは僕の命を求めていた。僕は今、それを理解することができた。僕が最終的な結論を出していたように、彼女もやはり最終的な結論を出していたのだ。どうしてそれがわからなかったのだろう。たぶん彼女は、僕と一晩抱き合ったあと、帰りの高速道路でBMWのハンドルを切って、二人で死んでしまうつもりだったのだ。彼女にとっては、それ以外の選択肢というものはおそらく存在しなかったのだと思う。でも何かがそのとき彼女を思い止まらせた。そしてすべてを呑み込んだまま、彼女は姿を消してしまったのだ。
島本さんはいったいどんな状況に立たされていたのだろう、と僕は自分に向かって問いかけてみた。それはどのような種類の袋小路だったのだろう。どのようにして、どのような理由で、どのような目的で、そしていったい誰が[#「いったい誰が」に傍点]、彼女をそんな場所に追い込んでしまったのだろう。どうしてそこから逃げだすことが、そのまま死を意味しなくてはならなかったのだろう? 僕は何度も何度もそれについて考えてみた。僕はあらゆる手かかりを自分の前に並べてみた。思いつくかぎりの推理をしてみた。でもどこにも辿りつけなかった。彼女はその秘密を抱え込んだまま、消えてしまったのだ。たぶん[#「たぶん」に傍点]もしばらく[#「しばらく」に傍点]もなく、ただひっそりとどこかに消えてしまった。そう思うとたまらない気持になった。結局のところ彼女はその秘密を僕と共有することを拒否したのだ。あれほどまでにぴったりと僕らの体が一体化したにもかかわらず。
「ある種のものごとは一度前に進んでしまうと、もうあとには戻れないのよ、ハジメくん」と島本さんは言うだろう。真夜中すぎのソファーの上で、僕はそう語りかける彼女の声を耳にすることかできた。僕はその声が紡ぎだす言葉をはっきりと聞きとることができた。「あなたが言うように、あなたと二人きりでどこかに行って、新しい人生をやりなおすことができたら、どんなに素敵だろうと思うわ。でも残念だけれど、私にはこの場所から抜け出すことはできないの。それは物理的に[#「物理的に」に傍点]不可能なのよ」
そこでは島本さんは十六の少女で、庭のひまわりの前に立って、ぎこちなく微笑んでいた。
「結局、私はあなたに会いに行くべきじゃなかったのね。それは最初から私にもわかっていたのよ。こうなるだろうことは、予想できたのよ。でも私にはどうしても我慢することができなかった。どうしてもあなたの姿を見たかったし、あなたを前にしたら声をかけないわけにはいかなかった。ねえバジメくん、それか私なのよ。私は、そうするつもりもないのに、最後にはいつも何もかもをだいなしにしてしまうのよ」
この先島本さんと会うことはもうあるまいと僕は思った。彼女はもう僕の記憶の中にしか存在しないのだ。彼女は僕の前から消えてしまった。彼女はそこにいたが、今では消えてしまった。そこには中間というものは存在しない。中間的なものが存在しないところには、中間というものもまた存在しない。国境の南にはたぶん[#「たぶん」に傍点]は存在するかもしれない。でも太陽の西にはたぶん[#「たぶん」に傍点]は存在しないのだ。
僕は毎日、そこに自殺した女の記事が出てはいないかと思って、新聞を隅々まで読んだ。でもそれらしい記事はみつからなかった。世の中では毎日多くの人々が自殺をしていた。でもそれはみんな別の人たちだった。素敵な微笑みを浮かべることのできる美しい三十七歳の女は、僕の知るかぎりではまだ自殺をしてはいないようだった。彼女はただ僕の前からいなくなってしまっただけだった。
僕は外見的には以前とほとんど変らない日常生活を続けていた。だいたい毎日子供たちを幼稚園に送り届け、迎えに行った。僕は車の中で子供たちと一緒に歌を歌った。ときどき幼稚園の前で例の260Eに乗った若い女と会って話をした。彼女と話していると、いろんなことを少しのあいだだけ忘れることができた。僕と彼女は相変らず食べ物と服のことしか話さなかった。僕らは会うたびに青山界隈や自然食についての何かしら新しい情報を持っていて、それをせっせと交換しあった。
仕事場でも僕はいつもどおりの役割を過不足なく果たしていた。ネクタイをしめて毎晩店に出て、親しい常連客と世間話をし、従業員のいろんな意見や不満を聞き、働いている女の子の誕生日にはちょっとしたものをプレゼントした。遊びに来たミュージシャンに酒をご馳走し、カクテルの味見をした。ピアノの調律があっているか、酔っぱらって他の客に迷惑をかけている客はいないかといつも注意を払っていた。そして何かトラブルがあれば、それをすぐに解消した。店の経営は順調すぎるくらいに順調だった。僕のまわりではすべてのものごとが円滑に進行していた。ただ僕はもう以前ほどには店の経営に熱心ではなくなっていた。僕はその二軒の店に対して昔ほどの熱意を抱くことができなくなっていた。おそらく他人の目にはそれはわからなかっただろうと思う。外見的には僕は以前とまったく同じだった。いや以前よりはむしろ愛想がよくなり、親切になり、よく喋るようになったかもしれない。でも自分ではよくわかった。カウンターのスツールに座って店の中をぐるりと見回してみると、前とはちがっていろんなものがひどく平板で色褪せて見えた。それはもうかつてのあの精妙で鮮やかな色彩を帯びた空中庭園ではなかった。どこにでもあるただのうるさい酒場だった。すべては人工的で、薄っぺらで、うらぶれていた。そこにあるものは酔っぱらいから金をむしりとることを目的として作り上げられた、ただの舞台装置に過ぎなかった。僕の頭の中にあった幻想のようなものは、いつのまにかもうみんな消えてしまっていた。何故ならそこに島本さんが来ることはもう二度とないからだ。彼女がやってきてカウンターに座り、にっこりと笑ってカクテルを注文することはもうないからだ。
家庭の中でも僕は以前と同じような生活を送っていた。僕はみんなと一緒に食事をし、日曜日には子供たちをつれて散歩にでかけたり、動物園に行ったりした。有紀子も僕に対して、少なくとも外面的には、以前と同じように接していた。僕らは相変わらず二人でいろんな話をした。おおまかにいって、僕と有紀子はたまたま同じ屋根の下にいる昔なじみみたいに暮らしていた。そこには語られない言葉があり、語ることのできない事実があった。でも僕らのあいだにはとげとげしい空気はなかった。ただ体を触れ合わせないだけだった。夜になると僕らは別れて寝た。僕は居間のソファーで寝て、有紀子は寝室で寝た。あるいはそれが我々の家庭におけるおそらく唯一のかたちのある変化だったかもしれない。
結局のところ何もかも演技に過ぎなかったのではないかと思うこともあった。僕らは自分たちに振り当てられた役柄をひとつひとつこなしてきただけのことではなかったのか。だからそこから大事な何かが失われてしまっても、技巧性だけでこれまでと同じように毎日を大過なく過ごしていくことができるのではないか。そういう風に考えると辛かった。このような空虚で技巧的な生活はおそらく有紀子の心を深く傷つけていることだろう。でも僕にはまだ彼女の問いに答えることができなかった。僕はもちろん有紀子と別れたくはなかった。それははっきりしていた。でもそんなことを言えるような資格は僕にはなかった。僕は一度は彼女と子供たちを捨てようとしていたのだ。島本さんがどこかに消えてしまってもう戻ってこないから、またすんなりともとの生活に戻るというわけにはいかない。ものごとはそれほど簡単ではないし、またそれほど簡単であってはならないのだ。それに加えて僕はまだ島本さんの幻影を頭の中から追い払うことができずにいた。それはあまりにも鮮明でリアルな幻影だった。目を閉じれば島本さんの体のあらゆる細部を刻明に思いだすことかできた。手のひらに、彼女の肌の感触を思い出すことができた。彼女の声を耳のそばに聞くことができた。僕はそんな幻影を抱えたまま有紀子の体を抱くわけにはいかなかった。
できるだけ一人になりたかったし、他に何をすればいいのかもわからなかったから、毎朝、一日も休まずにプールにかよった。そしてそのあとオフィスに行って、ひとりで天井を眺め、いつまでも島本さんの幻想に耽りつづけた。僕はそんな生活にどこかでけりをつけたかった。僕は有紀子との生活を中途半端に放り出したまま、彼女に対する答えを保留したまま、ある種の空白の中で生きつづけているのだ。そんなことをいつまでも続けているわけにはいかない。それはどう考えても正しいことではなかった。僕は一人の人間としての、夫としての、父親としての責任を取らなくてはいけないのだ。でも実際には何をすることもできなかった。幻想はいつもそこにあり、それは僕をしっかりと捉えてしまっていた。雨が降ると、状況はもっと悪くなった。雨が降ると、島本さんが今にもここを訪れてきそうな錯覚に僕は襲われた。雨の匂いを携えて、彼女がそっとドアを開ける。僕は彼女の顔に浮かんだ微笑みを想像することができた。僕が何か間違ったことを言うと、彼女はその微笑みを浮かべたまま、静かに首を振った。そして僕のあらゆる言葉はその力を失い、窓にはりついた雨の水滴のように、現実の領域からゆっくりとこぼれ落ちていった。雨の夜はいつも息苦しかった。それは現実を歪め、時間を狂わせた。
幻想を見ることに疲れ果てると、僕は窓の前に立っていつまでも外の風景を眺めていた。ときどき自分が、生命のしるしのない乾いた土地にひとりで取り残されてしまったように感じられた。幻影の群れが、まわりの世界から色彩という色彩を残らず吸い尽くしてしまったようだった。目に映るすべての事物や風景が、まるで間に合わせにつくられたもののように平板であり、うつろだった。そしてそれらはみんなほこりっぽい砂色をしていた。僕はイズミの消息を僕に教えてくれたあの高校時代の同級生のことを思いだした。彼はこう言った。「みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ」
その次の週には、まるで待ち受けていたようにいくつかの奇妙なことが続けて起こった。月曜日の朝に、僕はふと思いついて十万円が入った例の封筒を探してみた。とくに何か理由があったわけではないのだが、なんとなくその封筒のことが気になったのだ。僕はもう何年も前から、それをオフィスの机の引き出しにしまっておいた。上から二番目の引き出しで、そこには鍵がかかるようになっている。僕はオフィスに越してきたときにその引き出しに他の貴重品と一緒に封筒を入れ、ときどきその存在を確かめる以外一切手を触れなかった。でも引き出しの中には封筒は見当たらなかった。それは非常に奇妙で不自然なことだった。というのは、その封筒をどこかに移動した覚えはまったくなかったからだ。それについては百パーセント確信があった。念のために机の他の引き出しを全部引っばりだして、隅から隅まで調べてみた。でもやはり封筒はどこにも見つからなかった。
最後にその金の入った封筒を目にしたのはいつのことだっただろうと僕は考えてみた。僕には正確な日にちは思い出せなかった。それほど昔のことではないけれど、かといってついこのあいだというわけでもない。ーカ月前かもしれないし、二カ月前かもしれない。あるいは三カ月くらい前かもしれない。でもとにかくそれほど遠くない過去に僕は封筒を取りだし、その存在をはっきりと確認したのだ。
僕はわけのわからないままに椅子に腰を下ろし、その引き出しをしばらくじっと眺めていた。あるいは誰かが部屋に入って、引き出しの鍵を開けてその封筒だけを盗んでいったのがもしれない。それはまずありえないことだったけれど(というのはそれ以外にも机の中には現金や金目のものが入っていたから)、可能性としてまったくないというわけではなかった。あるいは僕が何か重大な思い違いをしているのかもしれない。僕は自分の知らないあいだにその封筒を処分して、それについて記憶をすっかりなくしてしまったのかもしれない。そういうことだって起こりえないわけではないのだ。まあなんだっていいじゃないか、と僕は自分に言い聞かせた。そんなものどうせいつか処分するつもりでいたんだ。そのぶんの手間が省けただけじゃないか、と。
でもその封筒が消えてしまったという事実を僕が認識し、僕の意識の中でその不在と存在とが位置をはっきりと交換してしまうと、封筒が存在するという事実に付随して存在していたはずの現実感も、同じように急速に失われていった。それは眩暈にも似た奇妙な感覚だった。僕がどのように自分に言い聞かせようとしても、その不在感は僕の中でどんどん膨らんで、僕の意識を激しく浸食していった。その不在感はかつてそこに明確に存在したはずの存在感を押しつぶし、貪欲に呑み込んでいった。
たとえば何かの出来事が現実であるということを証明する現実がある。何故なら僕らの記憶や感覚はあまりにも不確かであり、一面的なものだからだ。僕らが認識していると思っている事実がどこまでそのままの事実であって、どこからが
「我々が事実であると認識している事実」
なのかを識別することは多くの場合不可能であるようにさえ思える。だから僕らは現実を現実としてつなぎとめておくために、それを相対化するべつのもうひとつの現実を——隣接する現実を——必要としている。でもそのべつの隣接する現実もまた、それが現実であることを相対化するための根拠を必要としている。それが現実であることを証明するまたべつの隣接した現実があるわけだ。そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまでも続いて、ある意味ではそれが続くことによって、それらの連鎖を維持することによって、僕という存在が成り立っていると言っても過言ではないだろう。でもどこかで、何かの拍子にその連鎖が途切れてしまう。すると途端に僕は途方に暮れてしまうことになる。中断の向こう側にあるものが本当の現実なのか、それとも中断のこちら側にあるものが本当の現実なのか。
僕がそのときに感じたのはそういった種類の途絶した感覚だった。僕は引き出しを閉め、何もかもを忘れてしまおうとした。そんな金は最初から棄ててしまうべきだったんだ。そんなものを持っていたこと自体が間違いだったんだ、と。
同じ週の水曜日の午後、外苑東通りを車で走っているときに、僕は島本さんにとてもよく似た後ろ姿の女を見かけた。その女は青いコットンのズボンにベージュのレインコートを着て、白いデッキ・シューズをはいていた。そして片脚をひきずるようにして歩いていた。その女の姿を目にしたとき、僕のまわりにあるすべての情景が一瞬にして凍りついてしまったように感じられた。僕の胸の中から空気のかたまりのようなものが喉もとまでせりあがってきた。島本さんだ、と僕は思った。僕は彼女を追越し、バックミラーでその姿を確かめようとしたか、他の通行人の陰になって彼女の顔はよく見えなかった。僕がブレーキを踏むと、後ろの車が激しくクラクションを鳴らした。いずれにせよ、その背格好や髪の長さは島本さんにそっくりだった。僕はその場ですぐに車を停めようと思ったのだが、道路は目につくかぎり駐車中の車でいっぱいだった。二百メートルほど進んだところにぎりぎり車一台駐車できる場所をみつけて、そこに強引に車を入れ、彼女を見かけたあたりまで走って戻った。しかしもうそこには彼女の姿はなかった。僕は必死になってそのあたりを探してまわってみた。彼女は脚が悪いのだ。そんなに遠くまで行けるはずがない、と僕は自分に言い聞かせた。僕は人々を押し分け、道路を無理に横断し、歩道橋を駆け登り、高いところから道を行く人々の顔を眺めた。僕の着たシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。でもそのうちに、僕が目にした女が島本さんであるはずがないということにはっと思い当たった。その女は島本さんとは逆の脚をひきずっていたのだ。そして島本さんの脚はもう悪くない[#「島本さんの脚はもう悪くない」に傍点]。
僕は頭を振り、深いため息をついた。僕は本当にどうかしている。まるで立ちくらみのように、体から急速に力が抜けていくのが感じられた。僕は信号機にもたれかかり、しばらく自分の足元を見つめていた。信号が青から赤に変り、赤からまた青に変った。人々が通りを渡り、信号を待ち、そして通りを渡った。僕はそのあいだずっと信号機の柱にもたれて息をととのえていた。
ふと目をあげたとき、そこにはイズミの顔があった。イズミは僕の前に停まっているタクシーに乗っていた。その後部座席の窓から、彼女は僕の顔をじっと見ていた。タクシーは赤信号で停車していて、イズミの顔と僕のあいだにはほんの一メートルほどの距離しかなかった。彼女はもう十七歳の少女ではなかった。でも僕にはその女がイズミであることが一目でわかった。それはイズミ以外の誰でもありえなかった。そこにいたのは僕が二十年も前に抱いた女だった。それは僕がはじめて口づけをした女だった。僕が十七歳の秋の昼下がりにその服を脱がし、カードルの靴下どめをなくしてしまった女だった。二十年という歳月がどれだけ人を変えたとしても、その顔を見間違えることはなかった。「子供たちは彼女のことを怖がるんだよ」と誰かが言った。それを聞いたとき、僕にはその意味が掴めなかった。その言葉が何を伝えようとしているのか、うまく呑み込むことができなかった。でも今こうしてイズミを前にすると、僕には彼が言わんとしたことをはっきりと理解することができた。彼女の顔には表情というものがなかったのだ[#「彼女の顔には表情というものがなかったのだ」に傍点]。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕はこう言うべきだろう。彼女の顔からは[#「彼女の顔からは」に傍点]、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた[#「表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた」に傍点]、と。それは僕に家具という家具がひとつ残らず持ち出されてしまったあとの部屋を思い起こさせた。彼女の顔には感情のかけらすら浮かんではいなかった。まるで深い海の底のように、そこでは何もかもが音もなく死に絶えていた。そして彼女はその表情のかけらもない顔で、僕をじっと見つめていた。彼女はおそらく僕を見つめていたのだと思う。すくなくともその目はまっすぐ僕の方に向けられていた。でも彼女の顔は僕に向かって何も語りかけてはいなかった。もし彼女が僕に何かを語ろうとしていたのだとすれば、彼女が語りかけていたものは果てしのない空白だった。
僕はそこに呆然と立ちすくんだまま、言葉というものを失っていた。僕はただ自分の体を辛うじて支えながら、ゆっくりと呼吸をしているだけだった。その時、僕は自分というものの存在を本当に文字通り見失っていた。しばらくのあいだ、自分が誰かということさえ僕にはわからなくなってしまった。まるで僕という人間の輪郭が消滅して、どろどろした液体になってしまったようにさえ感じられた。僕は何を考える余裕もなく、ほとんど無意識に手をのばして、そのガラス窓に触れた。そして僕は指先でその表面をそっと撫でた。その行為か何を意味するのか、僕にはわからなかった。何人かの通行人が立ち止まって、驚いたように僕の方を見ていた。でも僕はそうしないわけにはいかなかったのだ。僕はガラス越しに、イズミの顔のない顔をゆっくりと撫でつづけた。それでも彼女は身動きひとつしなかった。彼女はまばたきひとつしなかった。彼女は死んでいるのだろうか? いや、死んでいるわけじゃない、と僕は思った。彼女はまばたきをしないまま生きていた。その音のない、ガラス窓の奥の世界に彼女は生きていた。そして彼女の動かない唇は、限りのない虚無を語っていた。
やがて信号が青に変わり、タクシーは去っていった。イズミの顔は最後まで表情をなくしたままだった。僕はそこにじっと立ちすくんで、そのタクシーが車の群れの中に吸い込まれて消えていくのを眺めていた。
僕は車を停めた場所に戻り、シートに身を落とした。とにかくここを離れなくてはいけないと僕は思った。エンジン・キイを回そうとしたところで、僕はひどく気分が悪くなった。激しい吐き気がした。でも吐くことはできなかった。ただ吐き気がするだけなのだ。僕はハンドルに両手をかけて、十五分ばかりそこにじっとしていた。汗が僕の脇の下ににじんできた。僕の体じゅうから嫌な匂いが漂ってくるように感じられた。それはかつて島本さんが優しく舐めまわしてくれた僕の体ではなかった。それは不快な匂いのする中年の男の体だった。
しばらくあとで交通巡査がやってきて、ガラス窓をノックした。僕は窓を開けた。ここは駐車禁止だよ、あんた、と警官は中を覗き込むようにして言った。すぐに車どかしでよ。僕は頷いてエンジン・キイを回した。
「顔色悪いけど、気分でも悪いの?」と警官が訊いた。
僕は黙って首を振った。そしてそのまま車を走らせた。
それから何時間か、僕は自分というものを取り戻すことができなかった。僕はただの脱け殻であり、体の中には虚ろな音が響いているだけだった。僕には自分が本当にからっぽになっていることがわかった。さっきまで体の中に残っていたはずのものが、なにもかも全部外に出ていってしまったのだ。僕は青山墓地の中に車を停めて、フロント・グラスの向こうの空をぼんやりと眺めていた。イズミはそこで僕を待っていたのだ、と僕は思った。彼女はおそらくいつもどこかで僕のことを待っていたのだ。どこかの街角で、どこかのガラス窓の奥で、彼女は僕がやってくるのを待っていたのだ。彼女はじっと僕を見ていたのだ。僕にはそれを見ることができなかっただけのことなのだ。
それから何日かのあいだ、僕はほとんど誰とも口をきくことかできなかった。何かを言おうとして口を開きかけるのだが、そのたびに言葉はふっと消えてしまった。まるで彼女の語りかけていた虚無が僕の中にすっぽりと入り込んでしまったみたいに。
でもイズミとのその奇妙な邂逅のあと、僕のまわりを取り囲んでいた島本さんの幻影と残響は、ゆっくりと時間をかけて薄らいでいった。目にする風景はいくらか色を取戻し、月の表面を歩いているような頼り無い感覚もだんだん治まってきたようだった。重力が微妙に変化して、自分の体にしっかりとしがみついているものが少しずつ、ひとつひとつ引きちぎられていくのを、僕はまるで他人の身に起こっている出来事をガラス越しに見ているようにぼんやりと感じていた。
おそらくそれと前後して、僕の中にあった何かが消えて、途絶えてしまったのだ。音もなく、そして決定的に。
僕はバンドの休憩時間にピアニストのところに行って、もうこれから『スタークロスト・ラヴァーズ』は弾かなくていいよと言った。僕はにっこりと笑って、愛想よくそう言ったのだ。
「これまでずいぶん聴かせてもらったから、もうそろそろいいよ。堪能した」
彼は何かを測るような目でしばらく僕の顔を見ていた。僕とそのピアニストは個人的な友だちといってもいいような間柄だった。僕らはときどき一緒に酒を飲んで、個人的な話をすることもあった。
「もうひとつよくわからないんだけど、それはあの曲をとくに弾かなくていいということなのかな。それとも二度と[#「二度と」に傍点]弾いてくれるなということなのかな。そのふたつにはかなりの違いがあるから、できたらはっきりさせておきたいんだけどね」と彼は言った。
「弾いてほしくないということだよ」と僕は言った。
「私の演奏が気に入らないというんじゃないよね」
「演奏には何の問題もないよ。素晴らしい。あの曲をちゃんと演奏できる人間はそんなにいない」
「ということはつまり、あの曲そのものをもう聴きたくないということになるのかな?」
「そういうことになるだろうな」と僕は言った。
「それなんだか『カサブランカ』みてえだよ、旦那」と彼は言った。
「たしかに」と僕は言った。
それ以来、彼は僕の顔を見るとときどき冗談で『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を弾いた。
僕がその曲をもう聴きたくないと思ったのは、そのメロディーを耳にすると島本さんのことを思い出してしまうからというような理由からではなかった。それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ[#「それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ」に傍点]。どうしてかはわからない。でも僕がかつてその音楽の中に見いだしていた特別な何かは、既にそこから消えてしまっていた。僕が長いあいだその音楽に託し続けてきたある種の心持ちのようなものはもう失われてしまっていた。それは相変わらず美しい音楽だった。でもそれだけだった。そして僕はもうその何かの亡骸のような美しいメロディーを、何度も何度も繰り返して聴きたいとは思わなかった。
「何を考えているの?」と有紀子がやってきて僕に訊いた。
それは夜の二時半で、僕はソファーの上に横になったまま、まだ眠れずにじっと目を開けて天井を見つめていた。
「砂漠のことを考えていたんだ」と僕は言った。
「砂漠のこと?」と彼女は言った。彼女は僕の足元に腰をかけて、僕の顔を見ていた。「どんな砂漠?」
「普通の砂漠だよ。砂丘があって、ところどころにサボテンが生えてる砂漠。いろんなものがそこに含まれて、そこで生きている」
「そこには私も含まれているの、その砂漠に?」と彼女は僕に訊いた。
「もちろん君もそこに含まれているよ」と僕は言った。「みんながそこで生きているんだ。でも本当に生きているのは砂漠なんだ。映画と同じようにさ」
「映画?」
「『砂漠は生きている』、ディズニーのやつだよ。砂漠についての記録映画だよ。小さい頃に見なかった?」
「見なかった」と彼女は言った。僕はそれを聞いてちょっと不思議な気がした。僕らはみんな学校から映画館に連れていかれてその映画を見たからだ。でも考えてみれば有紀子は僕より五つ下なのだ。たぶんその映画が公開されたころ、それを見にいくには彼女はまだ小さすぎたのだろう。
「今度レンタル・ショップでそのビデオを借りてくるよ。日曜日にみんなで一緒に見よう。いい映画だよ。風景もきれいだし、いろんな動物やら花やらが出てくるんだ。小さな子供が見てもわかる」
有紀子は微笑んで僕の顔を見ていた。彼女の微笑みを目にしたのは本当に久しぶりだった。
「あなたは私と別れたい?」と彼女は訊いた。
「ねえ有紀子、僕は君のことを愛しているよ」と僕は言った。
「そうかもしれないけれど、私は『あなたはまだ私と別れたい?』って訊いたのよ。答えはイエスかノオかどちらかしかないの。それ以外の答えは受け付けられないの」
「別れたくない」と僕は言った。僕は首を振った。「僕にこんなことを言う資格はないのかもしれないけれど、僕は君と別れたくない。このまま君と別れたら、僕は本当にどうしていいかわからなくなってしまうと思う。僕はもう二度と孤独になりたくない。もう一度孤独になるのなら、死んでしまった方がいい」
彼女は手を伸ばして、そっと僕の胸に触った。そしてじっと僕の目を見ていた。「資格のことは忘れなさいよ。きっと誰にも資格なんていうようなものはないんだから」と有紀子は言った。
僕は胸の上に有紀子の手のひらの温かみを感じながら、死について考えていた。僕はあの日に高速道路で島本さんと一緒に死んでいたのかもしれないのだ。もしそうなっていたら、僕の体はもうここには存在しなかったはずなのだ。僕は消えて、失われてしまっていたはずなのだ。他の多くのものと同じように。でもこうして僕はここに存在している。そして僕の胸の上には有紀子のぬくもりを持った手のひらが存在しているのだ。
「ねえ有紀子」と僕は言った。「僕は君のことがとても好きだよ。会ったその日から好きになったし、今でも同じように好きだ。もし君に会わなかったら、僕の人生はもっと惨めで、もっとひどいものになっていたと思う。そのことでは僕は君に対して言葉では表せないくらい深く感謝している。でもそれにもかかわらず僕は今、こうして君を傷つけている。それはたぶん僕が身勝手で、ろくでもない、無価値な人間だからだと思う。僕はまわりにいる人間を意味もなく傷つけて、そのことによって同時に自分を傷つけている。誰かを損ない、自分を損なっている。僕はそんなことをしたくてやっているんじゃない。でもそうしないわけにはいかないんだ」
「それはたしかね」と有紀子は静かな声で言った。微笑みの名残が、まだその口許に残っているように僕には感じられた。「あなたはたしかに身勝手な人間だし、ろくでもない人間だし、間違いなく私のことを傷つけた」
僕はしばらく有紀子の顔を見ていた。彼女が口にした言葉には僕を責める響きはなかった。彼女は怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなかった。彼女はただ事実を事実として述べているだけだった。
僕はゆっくりと時間をかけて、言葉を探した。「僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい生活を手に入れて、そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし、ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。どれだけまわりの風景が変化しても、人々の語りかける声の響きがどれだけ変化しても、僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。僕にはそれがわかるんだ。僕は今、君のためにできれば新しい自分になりたいと思っている。そしてたぶん僕にはそれができるだろう。簡単なことではないにしても、僕は努力して、なんとか新しい自分を獲得することができるだろう。でも正直に言って、同じようなことがもう一度起こったら、僕はまたもう一度同じようなことをするかもしれない。僕はまた同じように君を傷つけることになるかもしれない。僕には君に、何も約束することができないんだ。僕の言う資格とはそういうことだよ。僕はその力に打ち勝てるという自信がどうしても持てないんだ」
「あなたはこれまで、その力からずっと逃げようとしていたのね?」
「たぶんそうだと思う」と僕は言った。
有紀子はまだ僕の胸の上に手のひらを載せていた。「可哀そうな人」と彼女は言った。まるで壁に書かれた大きな文字を読み上げるような声だった。本当に壁にそう書いてあるのかもしれないなと僕は思った。
「僕には本当にわからないんだ」と僕は言った。「僕は君と別れたくない。それははっきりとしているんだ。でもその答えが本当に正しい答えなのかどうか、それがわからない。それが僕に選ぶことのできるものであるかどうかさえわからないんだ。ねえ有紀子、君はそこにいる。そして苦しんでいる。僕はそれを見ることができる。僕は君の手を感じることができる。でもそれとは別に、見ることも感じることもできないものが存在するんだ。それはたとえば思いのようなものであり、可能性のようなものなんだ。それはどこかからしみだしたり、紡ぎだされたりするものなんだ。そしてそれはこの僕の中に住んでいる。それは僕が自分の力で選んだり、回答を出したりすることのできないものなんだ」
有紀子は長いあいだ黙っていた。ときおり夜間輸送のトラックが窓の下の道路を通り過ぎていった。僕は窓の外に目をやったが、そこには何も見えなかった。そこにはただ、真夜中と夜明けとを繋ぎ、結ぶ、名前のない空間と時間が広がっているだけだった。
「これが続いているあいだ、私は何度も本当に死のうと思ったのよ」と彼女は言った。「これはあなたを脅すために言ってるんじゃないの。本当のことなの。私は何度も死のうと思った。それくらい私は孤独で寂しかったのよ。死ぬこと自体はそれほど難しいことじゃなかったと思う。ねえ、わかるかしら。部屋の空気が少しずつ薄くなるみたいに、私の中で、生きていたいという気持ちがだんだん少なくなっていくの。そういうときには、死んでしまうことなんて、たいしてむずかしいことじゃないのよ。私は子供のことさえ考えもしなかった。私が死んで、そのあと子供たちがどうなるがさえほとんど考えなかったのよ。私はそれくらい孤独で寂しかった。あなたにはそれはわからないでしょう? そのことについて、あなたは本当に真剣には考えなかったでしょう。私が何を感じて、何を思って、何をしようとしてたかということについて」
僕は黙っていた。彼女は僕の胸から手を離して、自分の膝の上に置いた。
「でもとにかく私が死ななかったのは、私がとにかくこうして生きていられたのは、あなたがいつかもし私のところに戻ってきたら、自分がそれを結局は受け入れるだろうと思っていたからなのよ。だから私は死ななかったの。それは資格とか、正しいとか正しくないとかいう問題じゃないの。あなたはろくでもない人間かもしれない。無価値な人間かもしれない。あなたは私をまた傷つけるかもしれない。でもそんな問題じゃないのよ。あなたには何もきっとわかってないのよ」
「たぶん僕には何もわかってないんだと思う」と僕は言った。
「そしてあなたは何も尋ねようとはしないのよ」と彼女は言った。
僕は何かを言おうとして口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。たしかに僕は有紀子に何ひとつ尋ねようとはしなかったのだ。どうしてだろうと僕は思った。どうして僕は彼女に何かを尋ねようとはしなかったのだろう?
「資格というのは、あなたがこれから作っていくものよ」と有紀子は言った。「あるいは私たち[#「私たち」に傍点]が。私たちにはそういうものが足りなかったのかもしれない。私たちはこれまでに一緒にいろんなものを作ってきたようで、本当は何も作ってはこなかったのかもしれない。きっといろんなことがうまく運びすぎていたのね。たぶん私たちは幸せすぎたのよ。そう思わない?」
僕は頷いた。
有紀子は胸の上で両腕を組んで、しばらく僕の顔を見ていた。「私にも昔は夢のようなものがあったし、幻想のようなものもあったの。でもいつか、どこかでそういうものは消えてしまった。あなたと出会う前のことよ。私はそういうものを殺してしまったの。たぶん自分の意志で殺して、捨ててしまったのね。もういらなくなった肉体の器官みたいに。それか正しいことだったのかどうか、私にはわからない。でも私にはそのとき、そうするしかなかったんだと思う。ときどき夢を見るのよ。誰かがそれを届けにくる夢を。何度も何度も同じ夢を見るの。誰かが両手にそれを抱えてやってきて、『奥さん、これ忘れ物ですよ』って言うの。そういう夢。私はあなたと暮らしていて、ずっと幸せだった。不満と呼べるほどのものもなかったし、これ以上欲しいものもとくになかった。でもね、それにもかかわらず、何かがいつも私のあとを追いかけてくるの。真夜中に私は汗でぐっしょりになってはっと目が覚めるのよ。その、私が捨てたはずのものに追いかけられて。何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよ。私の言っていることはわかる?」
「わかると思う」と僕は言った。
「あなたはまたいつか私を傷つけるかもしれない。そのときに私がどうなるが、それは私にもわからない。あるいは今度は私があなたを傷つけることになるかもしれない。何かを約束することなんか誰にもできないのよ、きっと。私にもできないし、あなたにもできない。でもとにかく、私はあなたのことが好きよ。それだけのことなの」
僕は彼女の体を抱いて、その髪を撫でた。
「ねえ有紀子」と僕は言った。
「明日から始めよう。僕らはもう一度初めからやりなおすことができると思う。でも今日はもう遅すぎる。僕は手つかずの一日の始めから、きちんと始めたいんだ」
有紀子はしばらく僕の顔をじっと見ていた。「私は思うんだけれど」と彼女は言った、「あなたは私に向かってまだ何も尋ねてない」
「明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけれど、君はそれについてどう思う?」と僕は尋ねた。
「それがいいと思う」と有紀子はそっと微笑んで言った。
有紀子が寝室に戻ったあと、僕は仰向けになって、長いあいだ天井を眺めていた。それは何の特徴もない普通のマンションの天井だった。そこには面白いものは何もなかった。でも僕はそれをずっと見つめていた。ときどき角度の関係でそこに車のライトか映ることがあった。幻影はもう浮かんではこなかった。島本さんの乳首の感触や、声の響きや、その肌の匂いを、もうそれほどはっきりとは思い出すことができなかった。ときどきイズミのあの表情のない顔を思い出した。僕と彼女の顔を隔てていた、タクシーの窓ガラスの感触を思い出した。そんなとき、じっと目を閉じて有紀子のことを思った。僕は有紀子がさっき口にしたことを何度も頭の中で繰り返した。目を閉じて、自分の体の中で動いているものに対して耳を澄ませた。おそらく僕は変化しようとしているのだろう。そしてまた変化しなくてはならないのだ。
自分の中にこれから先ずっと有紀子や子供たちを守っていくだけの力があるのかどうか、僕にはまだわからなかった。幻想はもう僕を助けてはくれなかった。それはもう僕のために夢を紡ぎだしてはくれなかった。空白はどこまでいっても空白のままだった。僕はその空白の中に長いあいだ身を浸していた。その空白に自分の体を馴染ませようとした。これが結局僕のたどりついた場所なのだ、と思った。僕はそれに馴れなくてはならないのだ。そしておそらく今度は、僕が誰か[#「誰か」に傍点]のために幻想を紡ぎだしていかなくてはならないのだろう。それが僕に求められていることなのだ。そんな幻想がいったいどれほどの力を持つことになるのか、わからなかった。でも今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう——たぶん[#「たぶん」に傍点]。
夜明けが近くなると、僕は眠るのをあきらめた。パジャマの上にカーディガンを羽織り、台所に行ってコーヒーを沸かして飲んだ。僕は台所のテーブルに座って、少しずつ空が白んでいくのを眺めていた。夜明けを見たのは本当にひさしぶりのことだった。空の端の方に一筋青い輪郭があらわれ、それが紙に滲む青いインクのようにゆっくりとまわりに広がっていった。それは世界じゅうの青という青を集めて、そのなかから誰が見ても青だというものだけを抜き出してひとつにしたような青だった。僕はテーブルに肘をついて、そんな光景を何を思うともなくじっと見ていた。しかし太陽が地表に姿を見せると、その昔はやがて日常的な昼の光の中に呑み込まれていった。墓地の上にひとつだけ雲が浮かんでいるのが見えた。輪郭のはっきりとした、真っ白な雲だった。その上に字が書けそうなくらいくっきりとした雲だった。別の新しい一日が始まったのだ。でもその新しい一日が何を僕にもたらそうとしているのか、僕には見当もつかなかった。
僕はこれから娘たちを幼稚園に送り届け、そのあとでプールに行くことだろう。いつもと同じように。僕は中学生の頃に通っていたプールのことを思い出した。僕はそのプールの匂いや、天井に反響する声のことを思い出した。その頃、僕は新しい何かになろうとしていたのだ。鏡の前に立つと、自分の体か変化していく様を目にすることができた。静かな夜には、その肉体か成長していく音を聴くことさえできた。僕は新しい自己という衣をまとって、新しい場所に足を踏み入れようとしていた。
台所のテーブルに座ったまま、僕は墓地の上に浮かんだ雲をまだじっと眺めていた。雲はびくりとも動かなかった。まるで空に釘で打ちつけられたみたいに、そこにぴったりと静止していた。娘たちをそろそろ起こしにいかなくては、と僕は思った。もうとっくに夜は明けたのだし、娘たちは起きなくてはならない。彼女たちは僕よりはずっと強く、ずっと切実に、この新しい一日を必要としているのだ。僕は彼女たちのベッドに行って、布団をはがし、その柔らかくて温かい体の上に手を載せて、新しい一日がやってきたことを告げなくてはならないのだ。それが今、僕のやらなくてはならないことなのだ。でも僕はその台所のテーブルの前から、どうしても立ち上がることができなかった。体からはあらゆる力が失われてしまっているようだった。まるで誰かが僕の背後にそっとまわって、音もなく体の栓を抜いてしまったみたいに。僕はテーブルに両肘をつき、手のひらで顔を覆った。
僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。
誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。