そのエレベーターは私のアパートについている進化した井戸つるべのような安手で|直截的《ちょくせつてき》なエレベーターとは何から何まで違っていた。あまりにも何から何まで違っていたので、とてもそれらが同一の目的のために作られた同一の機構を持つ同一の名を|冠《かん》せられた機械装置だとは思えないくらいだった。そのふたつのエレベーターはおよそ考えられうる限りの長い距離によって存在を遠く隔てられていたのだ。
まず第一に広さの問題だ。私が乗ったエレベーターはこぢんまりとしたオフィスとしても通用するくらい広かった。机を置いてロッカーを置いてキャビネットを置き、その上に小型のキッチンを備えつけてもまだ余裕がありそうである。ラクダを三頭と中型のやしの木を一本入れることだってできるかもしれない。第二に清潔だった。新品の|棺《かん》|桶《おけ》のように清潔である。まわりの壁も天井もしみひとつくもりひとつないぴかぴかのステンレス・スティールで、床には毛足の長いモス・グリーンのカーペットが敷きこんである。第三におそろしく静かだった。私が中に入ると音もなく——文字どおり音もなく——するすると|扉《とびら》が閉まり、それっきり何の音も聞こえなくなった。|停《と》まっているのか動いているのかもわからないくらいだった。深い川は静かに流れるのだ。
もうひとつ、そこにはエレベーターというものが当然装備していなくてはならないはずの様々な付属物の大半が欠落していた。まず各種のボタンやスウィッチの|類《たぐ》いを集めたパネルがない。階数を示すボタンもドアの開閉ボタンも非常停止装置もない。とにかく何もないのだ。そのために私は非常に無防備な気持になった。ボタンばかりではない。階数を示すランプもなく、定員や注意事項の表示もなく、メーカーの名前を書いたプレートさえ見あたらなかった。非常用の脱出口がどこにあるのかもわからない。たしかにまるっきりの棺桶だった。どう考えてもこんなエレベーターが消防署の許可を得られるわけはない。エレベーターにはエレベーターのきまりというものがあるはずなのだ。
そんな何のとっかかりもないステンレス・スティールの四つの壁をじっと|睨《にら》んでいると、子供の|頃《ころ》映画で見たフーディニの大奇術のことを思いだした。彼はロープと鎖で幾重にも縛られて大きなトランクの中に詰められ、その上にまた重い鎖をぐるぐると巻きつけられ、トランクごとナイアガラの滝の上から落とされたり、あるいは北海で氷づけになったりするのだ。私はゆっくりと一度深呼吸してから、私の置かれた立場とフーディニの置かれた立場とを冷静に比較してみた。体を縛られていないぶん私の方が有利だったが、たね[#「たね」に丸傍点]を知らないぶんは不利だった。
考えてみればたね[#「たね」に丸傍点]どころか私にはエレベーターが動いているのか停まっているのかさえわからないのだ。私は|咳《せき》|払《ばら》いをしてみた。しかしそれは何か奇妙な咳払いだった。咳払いが咳払いのように響かないのだ。やわらかな粘土をコンクリートののっぺりとした壁に投げつけたときのような妙に|扁《へん》|平《ぺい》な音が聞こえただけだった。私にはそれが自分の体から発せられた音だとはどうしても思えなかった。念のためにもう一度咳払いをしてみたが結果は同じようなものだった。私はあきらめて、それ以上咳払いするのをやめた。
ずいぶん長いあいだ、私はそのままの格好でじっと立ちつくしていた。いつまでたっても扉は開かなかった。私とエレベーターは『男とエレベーター』という題の静物画みたいにそこに静かにとどまっていた。私は少しずつ不安になってきた。
機械は故障しているのかもしれないし、あるいはエレベーターの運転手——そういう役目の人間がどこかに存在すると仮定しての話だが——が私が箱の中に入っていることをうっかり忘れてしまったのかもしれない。ときどき私は私の存在を|誰《だれ》かに忘れられてしまうことがあるのだ。しかしどちらの場合にせよ、結果的に私はこのステンレス・スティールの密室の中に閉じこめられてしまったことになる。じっと耳を澄ませてみたが、どのような音も耳には届かなかった。ステンレス・スティールの壁にぴたりと耳をつけてみたが、それでもやはり音は聞こえなかった。壁に私の耳のかたちが白く残っただけだった。エレベーターはあらゆる音を吸いとるために作られた特殊な様式の金属箱であるようだった。私はためしに口笛で『ダニー・ボーイ』を吹いてみたが、肺炎をこじらせた犬のため息のような音しか出てこなかった。
私はあきらめてエレベーターの壁にもたれ、ポケットの中の小銭の勘定をして暇をつぶすことにした。もっとも暇つぶしとはいっても、それは私のような職業の人間にとっては、プロ・ボクサーがいつもゴム・ボールを握っているのと同じように大事なトレーニングのひとつである。純粋な意味での暇つぶしではない。行動の反復によってのみ偏在的傾向の普遍化は可能なのだ。
とにかく私はいつもズボンのポケットにかなりの量の小銭をためておくように心懸けている。右側のポケットに百円玉と五百円玉を入れ、左側に五十円玉と十円玉を入れる。一円玉と五円玉はヒップ・ポケットに入れるが原則として計算には使わない。両手を左右のポケットにつっこみ、右手で百円玉と五百円玉の金額を数え、それと並行して左手で五十円玉と十円玉の金額を数えるのだ。
そういう計算はやったことのない人には想像しにくいだろうが、はじめのうちはかなり|厄《やっ》|介《かい》な作業である。右側の脳と左側の脳でまったくべつの計算をし、最後に割れた|西瓜《す い か》をあわせるみたいにそのふたつを合体させるわけである。慣れないことにはなかなかうまくいかない。
本当に右側の脳と左側の脳を分離して使いわけているのかどうか、正確なところは私にはわからない。脳生理学の専門家ならもっとべつの表現をするかもしれない。しかし私は脳生理学の専門家ではないし、それに実際に計算をしてみるとたしかに右側の脳と左側の脳を使いわけているような気がするものなのだ。数え終ったあとの疲労感をとってみても、通常の計算をしたあとの疲労感とはずいぶん質が違っているように思える。そこで私は便宜的に、右の脳で右ポケットの勘定をし、左の脳で左ポケットの勘定をするという風に考えているわけだ。
私はどちらかといえば様々な世界の事象・ものごと・存在を便宜的に考える方ではないかと自分では考えている。それは私が便宜的な性格の人間だからというのではなく——もちろんいくぶんそういう傾向があることは認めるが——便宜的にものごとを|捉《とら》える方が正統的な解釈よりそのものごとの本質の理解により近づいているような場合が世間には数多く見うけられるからである。
たとえば地球が球状の物体ではなく巨大なコーヒー・テーブルであると考えたところで、日常生活のレベルでいったいどれほどの不都合があるだろう? もちろんこれはかなり極端な例であって、何もかもをそんな風に自分勝手に作りかえてしまうわけではない。しかし地球が巨大なコーヒー・テーブルであるという便宜的な考え方が、地球が球状であることによって生ずる様々な種類の|瑣《さ》|末《まつ》な問題——たとえば引力や日付変更線や赤道といったようなたいして役に立ちそうにもないものごと——をきれいさっぱりと排除してくれることもまた事実である。ごく普通の生活を送っている人間にとって赤道などという問題にかかわらねばならないことが一生のうちにいったい何度あるというのだ?
というわけで私はできるだけ便宜的な視点からものごとを|眺《なが》めようと心懸けている。世界というのは実に様々な、はっきりといえば無限の可能性を含んで成立しているというのが私の考え方である。可能性の選択は世界を構成する個々人にある程度|委《ゆだ》ねられているはずだ。世界とは凝縮された可能性で作りあげられたコーヒー・テーブルなのだ。
話をもとに戻すと、右手と左手でまったくべつの計算を平行しておこなうというのは決して簡単なことではない。私だって精通するまでにはずいぶん長い時間がかかった。しかし一度精通してしまうと、言いかえれば一度そのコツを習得してしまうと、その能力は簡単に消え失せてしまったりはしない。これは自転車や水泳と同じだ。とはいっても練習がいらないわけではない。不断の練習によってのみ能力は向上し、様式は|洗練《リファイン》される。だからこそ私はいつもポケットに小銭をためておき、暇があればその計算をするように心懸けているのである。
そのときの私のポケットの中には五百円玉が3枚と百円玉が18枚、五十円玉が7枚と十円玉が16枚入っていた。合計金額は3810円になる。計算には何の苦労もなかった。この程度なら手の指の数を数えるよりも簡単だった。私は満足してステンレス・スティールの壁にもたれかかり、正面の扉を眺めた。扉はまだ開かなかった。
どうしてこんなに長くエレベーターの扉が開かないのか、私にはわからなかった。しかし少し考えてみてから、機械の故障説と係員が私の存在を忘れてしまったという不注意説は両方とも一応排除してもかまわないだろうという結論に達した。現実的ではないからだ。もちろん私は機械の故障や係員の不注意が現実に起り得ないと言っているわけではない。逆に現実の世界ではその種のアクシデントが|頻《ひん》|繁《ぱん》に起っていることを私は承知している。私が言いたいのは特殊な現実の中にあっては——というのはもちろんこの|馬《ば》|鹿《か》げたつるつるのエレベーターのことだ——非特殊性は逆説的特殊性として便宜的に排除されてしかるべきではないか、ということである。機械の手入れを怠ったり来訪者をエレベーターに乗せたきりあとの操作を忘れてしまうような不注意な人間がこれほど手のこんだエキセントリックなエレベーターを作ったりするものなのだろうか?
答はもちろんノオだった。
そんなことはありえない。
これまでのところ、彼ら[#「彼ら」に丸傍点]はおそろしく神経質で用心深く、|几帳面《きちょうめん》だった。彼らはまるで一歩一歩の歩幅をものさしで測りながら歩いているみたいに、実に細かいところにまで気を配っていた。ビルの玄関に入ると私は二人のガードマンにとめられ、来訪の相手を|訊《たず》ねられ、来訪予定者リストと照合され、運転免許証をチェックされ、中央コンピューターで|身《み》|許《もと》を確認され、金属探知機でボディー・チェックされ、しかるのちにこのエレベーターに押しこまれたのだ。造幣局の見学だってこんなに厳しいチェックは受けない。それなのにこの段階に至ってその注意深さが突然失われてしまうというのはいくらなんでも考えがたいことである。
そうなると残った可能性は彼らが意識的に私をこのような立場に置いているということだけだった。おそらく彼らはエレベーターの動きを私に読まれたくないのだろう。だから上昇しているのか下降しているのかわからないくらいの速度でゆっくりとエレベーターを移動させているのだ。TVカメラだってついているかもしれない。入口の警備室にはモニターTVのスクリーンがずらりと並んでいたし、そのひとつがエレベーターの中を映しているとしてもとくに驚くべきことではない。
私は退屈しのぎにTVカメラのレンズを探してみようかとも思ったが、よく考えてみれば仮にそんなものをみつけだしたところで私の得るものは何もなかった。ただ相手を警戒させてしまうだけだし、警戒した相手はもっとゆっくりエレベーターを動かそうとするかもしれない。そんな目にはあいたくない。ただでさえ約束の時間に遅れているのだ。
結局私はとくべつなことは何もせずにのんびりと構えていることにした。私はただ与えられた正当な職務を果すためにここに来ただけのことなのだ。何も|怯《おび》えることはないし、緊張する必要もない。
私は壁にもたれて両手をポケットにつっこみ、もう一度小銭の計算をはじめた。3750円だった。何の苦労もない。あっという間にすんでしまう。
3750円?
計算が違っている。
どこかで私はミスを犯してしまったのだ。
手のひらに汗がにじんでくるのが感じられた。私がポケットの小銭の計算をしくじったなんてこの三年間一度もないことだった。ただの一度としてないのだ。どう考えてもこれは悪い|兆《きざ》しだった。その悪い兆しが明白な|災《さい》|厄《やく》として現出する前に、私は失地をきちんと回復しておかなければならなかった。
私は目を閉じて、眼鏡のレンズを洗うように右の脳と左の脳をからっぽにした。それから両手をズボンのポケットからひっぱりだして手のひらを広げ、汗を乾かした。それだけの準備作業をガン・ファイトにのぞむ前の『ワーロック』のヘンリー・フォンダみたいに|手《て》|際《ぎわ》よくすませた。どうでもいいようなことだけれど、私はあの『ワーロック』という映画が大好きなのだ。
両方の手のひらが完全に乾いたのをたしかめてから、私はあらためてそれを両方のポケットにつっこみ、三度めの計算にかかった。三度めの合計が前の合計のいずれかに合致していれば、それで問題はない。ミスは誰にでもある。特殊な状況に置かれて神経質にもなっていたし、いささかの自己過信があったことも認めなくてはならない。それが私に初歩的なミスをもたらしたのだ。とにかく正確な数字を確認すること——救済はそれによってもたらされるはずだった。しかし私がその救済にたどりつく前にエレベーターの扉が開いた。扉は何の前兆もなく何の音もなく、するすると両側に開いた。
ポケットの中の小銭に神経を集中させていたせいで、はじめのうちドアが開いたことを私はうまく認識することができなかった。というかもう少し正確に表現すると、ドアが開いたのは目に入ったのだが、それが具体的に何を意味するのかがしばらくのあいだ|把《は》|握《あく》できなかった、ということになる。もちろん扉が開くというのは、それまでその扉によって連続性を奪いとられていたふたつの空間が連結することを意味する。そして同時にそれは私の乗ったエレベーターが目的地に到達したことをも意味している。
私はポケットの中で指を動かすのを中断して扉の外に目をやった。扉の外には廊下があり、廊下には女が立っていた。太った若い女で、ピンクのスーツを着こみ、ピンクのハイヒールをはいていた。スーツは仕立ての良いつるつるとした|生《き》|地《じ》で、彼女の顔もそれと同じくらいつるつるしていた。女は私の顔をしばらく確認するように眺めてから、私に向ってこっくりと|肯《うなず》いた。どうやら〈こちらに来るように〉という合図らしかった。私は小銭の勘定をあきらめて両手をポケットから出し、エレベーターの外に出た。私が外に出ると、それを待ち受けていたかのように私の背後でエレベーターの扉が閉まった。
廊下に立ってまわりをぐるりと見まわしてみたが、私の置かれた状況について何かを|示《し》|唆《さ》してくれそうなものはひとつとして見あたらなかった。私にわかったのは、それがビルの内部の廊下であるらしいということだけだったが、そんなことは小学生にだってわかる。
それはともかく異様なくらいのっぺりとした内装のビルだった。私の乗ってきたエレベーターと同じように、使ってある材質は高級なのだがとりかかりというものがないのだ。床はきれいに|磨《みが》きあげられた光沢のある大理石で、壁は私が毎朝食べているマフィンのような黄味がかった白だった。廊下の両側にはがっしりとして重みのある木製のドアが並び、そのそれぞれには部屋番号を示す金属のプレートがついていたが、その番号は|不《ふ》|揃《ぞろ》いで|出《で》|鱈《たら》|目《め》だった。〈936〉のとなりが〈1213〉でその次が〈26〉になっている。そんな無茶苦茶な部屋の並び方ってない。何かが狂っているのだ。
若い女はほとんど口をきかなかった。女は私に向って「こちらへどうぞ」と言ったが、それは彼女の|唇《くちびる》がそういう形に動いただけのことであって、音声は出てこなかった。私はこの仕事に就く以前に、二カ月ばかり|読唇術《どくしんじゅつ》の講座に通っていたから、彼女の言っていることをなんとか理解することができたのだ。はじめのうち、私は自分の耳がどうかしてしまったのかと思った。エレベーターが無音だったり、咳払いや口笛がうまく響かなかったりで、音響について私はすっかり弱気になってしまっていたのだ。
私はためしに咳払いをしてみた。咳払いの音はあいかわらずこそこそしてはいたが、それでもエレベーターの中で咳払いしたときよりはずっとまともに響いた。それで私はほっとして、自分の耳に対していくぶん自信をとりもどすことができた。大丈夫、私の耳がどうかしてしまったというわけではないのだ。私の耳はまともで、問題があるのは女の口の方なのだ。
私は女のあとをついて歩いた。|尖《とが》ったハイヒールのかかとが、カツカツという昼下がりの石切り場のような音を立てて、がらんとした廊下に響いた。ストッキングにつつまれた女のふくらはぎが大理石にくっきりと映っていた。
女はむっくりと太っていた。若くて美人なのだけれど、それにもかかわらず女は太っていた。若くて美しい女が太っているというのは、何かしら奇妙なものだった。私は彼女のうしろを歩きながら、彼女の首や腕や脚をずっと眺めていた。彼女の体には、まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに、たっぷりと肉がついていた。
若くて美しくて太った女と一緒にいると私はいつも混乱してしまうことになる。どうしてだかは自分でもよくわからない。あるいはそれは私がごく自然に相手の食生活の様子を想像してしまうからかもしれない。太った女を見ていると、私の頭の中には彼女が|皿《さら》の中に残ったつけあわせのクレソンをぽりぽりとかじったり、バター・クリーム・ソースの最後の一滴をいとおしそうにパンですくったりしている光景が自動的に浮かんでくるのだ。そうしないわけにはいかないのだ。そしてそうなると、まるで酸が金属を|浸蝕《しんしょく》するみたいに私の頭は彼女の食事風景でいっぱいになり、様々な他の機能がうまく働かなくなるのだ。
ただの太った女なら、それはそれでいい。ただの太った女は空の雲のようなものだ。彼女はそこに浮かんでいるだけで、私とは何のかかわりもない。しかし若くて美しくて太った女となると、話は変ってくる。私は彼女に対してある種の態度を決定することを迫られる。要するに彼女と寝ることになるかもしれないということだ。それがおそらく私の頭を混乱させてしまうのだろうと思う。うまく機能しない頭を抱えて女と寝るというのは簡単なことではないのだ。
とはいっても私は決して太った女を|嫌《きら》っているわけではない。混乱することと嫌うことは同義ではないのだ。私はこれまでに何人かの太った若くて美しい女と寝たことがあるが、それは総合的に見れば決して悪い体験ではなかった。混乱がうまい方向に導かれれば、そこには通常では得ることのできない美しい結果がもたらされることになる。もちろんそれがうまくいかないこともある。セックスというのはきわめて微妙な行為であって、日曜日にデパートにでかけて|魔《ま》|法《ほう》|瓶《びん》を買ってくるのとはわけが違うのだ。同じ若くて美しくて太った女でもそれぞれ肉のつき方に差があって、ある種の太り方は私をうまい方向に導くし、ある種の太り方は私を表層的混乱の中に置き去りにしてしまう。
そういう意味では太った女と寝ることは私にとってはひとつの|挑戦《ちょうせん》であった。人間の太り方には人間の死に方と同じくらい数多くの様々なタイプがあるのだ。
私はその若くて美しくて太った女のうしろについて廊下を歩きながら、だいたいそんなことを考えていた。彼女はシックな色あいのピンクのスーツの|襟《えり》もとに白いスカーフを巻いていた。肉づきの良い両方の耳たぶには長方形の金のイヤリングがさがっていて、彼女が歩くにつれてそれが灯火信号みたいにちかちかと光った。全体的に見て、太っているわりに彼女の身のこなしは軽かった。もちろんかっちりとした下着か何かで効果的に見映えよくひきしめているのかもしれないけれど、しかしその可能性を考慮にいれても彼女の腰の振りかたはタイトで小気味よかった。それで私は彼女に好感を持った。彼女の太り方は私の好みにあっているようだった。
言いわけをするわけではないが、私はそれほど多くの女に対して好感を抱くわけではない。どちらかといえばあまり抱かない方だと思う。だからたまに誰かに対して好感を抱いたりすると、その好感をちょっと試してみたくなる。それが本物の好感なのかどうか、そしてもし本物の好感だとしたらそれはどのように機能するのか、といったようなことを自分なりにたしかめてみたくなるのだ。
それで私は彼女のとなりに並び、約束の時刻に八分か九分ほど遅れたことを|詫《わ》びた。
「入口の手続きにあんなに時間がかかるとは知らなかったんです」と私は言った。「それにエレベーターがあんなにのろいということもね。このビルに着いたのはちゃんと約束の十分前だったんです」
〈わかっている〉という風に彼女は手短かに肯いた。彼女の首筋にはオーデコロンの|匂《にお》いがした。夏の朝のメロン畑に立っているような匂いだった。その匂いは私を何かしら不思議な気持にさせた。ふたつの異った種類の記憶が私の知らない場所で結びついているような、どこかちぐはぐでいてしかも|懐《なつか》しいような妙な気持だった。ときどき私はそういう気分になることがある。そしてその多くはある特定の匂いによってもたらされる。どうしてそうなるのかは私にも説明できない。
「ずいぶん長い廊下だね」と私は世間話のつもりで彼女に声をかけてみた。彼女は歩きながら私の顔を見た。二十か二十一というところだろうと私は見当をつけた。目鼻だちがはっきりとして額が広く、|肌《はだ》が美しい。
彼女は私の顔を見ながら「プルースト」と言った。とはいっても正確に「プルースト」と発音したわけではなく、ただ単に〈プルースト〉というかたちに唇が動いたような気がしただけだった。音はあいかわらずまったく聞こえなかった。息を吐く音さえ聞こえない。まるで厚いガラスの向う側から話しかけられているみたいだった。
プルースト?
「マルセル・プルースト?」と私は彼女にたずねてみた。
彼女は不思議そうな目で私を見た。そして〈プルースト〉と繰りかえした。私はあきらめてもとの位置に|戻《もど》って、彼女のうしろを歩きながら〈プルースト〉という唇の動きに相応することばを一所懸命探してみた。「うるうどし」とか「|吊《つる》し井戸」とか「黒いうど」とかそういった意味のないことばを次から次に私はそっと発音してみたが、どれもこれも唇の形にぴったりとはそぐわなかった。彼女はたしかに〈プルースト〉と言ったのだという気がした。しかし長い廊下とマルセル・プルーストとの関連性をどこに求めればいいのか、私にはよくわからなかった。
彼女はあるいは長い廊下の|暗《あん》|喩《ゆ》としてマルセル・プルーストを引用したのかもしれなかった。しかしもし仮にそうだったとしても、そういう発想はあまりにも唐突だし、表現としても不親切ではないかと私は思った。プルーストの作品群の暗喩として長い廊下を引用するのであれば、それはそれで私にも話の筋を理解することはできる。しかしその逆というのはあまりにも奇妙だった。
〈マルセル・プルーストのように長い廊下〉?
ともかく私はその長い廊下を彼女のあとにしたがって歩いた。ほんとうに長い廊下だった。何度か角を曲り、五段か六段ほどの短かい階段を上ったり下りたりした。普通のビルなら五つか六つぶんは歩いたかもしれない。あるいは我々はエッシャーのだまし絵のようなところをただ|往《い》ったり来たりしていたのかもしれない。いずれにせよどれだけ歩いてもまわりの風景はまったく変化しなかった。大理石の床、卵色の壁、出鱈目な部屋番号とステンレス・スティールのドア・ノブのついた木のドア。窓はひとつも見あたらない。彼女は終始同じリズムでハイヒールの|靴《くつ》|音《おと》を規則正しく廊下に響かせ、そのあとを私がべたべたという溶けたゴムのような音を立てながらジョギング・シューズで追った。その私の靴音は必要以上にねばっこく響いて、本当にゴム底が溶けはじめているのではないかと心配になったくらいだった。もっともジョギング・シューズをはいて大理石の床を歩いたのは生まれてはじめてのことだったので、そういう靴音が正常なのか異常なのか、私にはうまく判断することができなかった。たぶん半分くらい正常で、あとの半分くらいは異常なのではなかろうか、と私は想像した。|何《な》|故《ぜ》ならここでは何もかもがその程度の割合で運営されているような気がしたからだ。
彼女が急に立ちどまったとき、私は自分のジョギング・シューズの足音にずっと神経を集中していたので、それに気がつかずに、彼女の背中に胸からどすんとぶつかってしまった。彼女の背中はよくできた雨雲のようにふわりとして心地良く、首筋には例のメロン・オーデコロンの匂いがした。彼女はぶつかった勢いで前につんのめりかけたので、私はあわてて両手で肩をつかんでひきもどした。
「失礼」と私は詫びた。「ちょっと考えごとをしていたもので」
太った娘は少し顔を赤らめて私を見た。たしかなことは言えないけれど、怒ってはいないようだった。「たつせる」と彼女は言って、ほんのちょっとだけ|微笑《ほ ほ え》んだ。それから肩をすくめて「せら」と言った。しかしもちろん本当にそう言ったわけではなくて、何度も繰りかえすようだけれど、そういう形に彼女は唇を開いたのだ。
「たつせる?」と私は自分に言いきかせるように口に出して発音してみた。「せら?」
「せら」と彼女は確信をもって繰りかえした。
それはなんだかトルコ語のように響いたが、問題は私がトルコ語を一度も耳にしたことがないという点にあった。だからたぶんそれはトルコ語ではないのだろう。だんだん頭が混乱してきたので、私は彼女との会話をあきらめることにした。私の読唇術はまだまだ未熟なのだ。読唇術というものは非常にデリケートな作業であって、二カ月ばかりの市民講座で完全にマスターできるというような代物ではないのだ。
彼女は上着のポケットから小さな小判型の電子キイをとりだして、その平面を〈728〉というプレートのついたドアのロックにぴたりとあてた。かちりという音がして、ドアのロックが解除された。なかなか立派な装置だ。
彼女はドアを開けた。そして戸口に立ってドアを手で押し開けたまま、私に向って「そむと、せら」と言った。
もちろん私は肯いて中に入った。