時間がいびつなかたちをとって
進み得ること
天吾は自分の脳について考える。脳については考えなくてはならないことがたくさんあった。
人間の脳はこの二百五十万年のあいだに、大きさが約四倍に増加した。重量からいえば、脳は人間の体重の二パーセントしか占めていないのだが、それにもかかわらず、身体の総エネルギーの約四十パーセントを消費している(と彼がこのあいだ読んだ本には書かれていた)。脳という器官のそのような飛躍的な拡大によって、人間が獲得できたのは、時間と空間と可能性の観念である。
[#ゴシック体]時間と空間と可能性の観念。[#ゴシック体終わり]
時間がいびつなかたちをとって進み得ることを、天吾は知っている。時間そのものは均一な成り立ちのものであるわけだが、それはいったん消費されるといびつなものに変わってしまう。ある時間はひどく重くて長く、ある時間は軽くて短い。そしてときとして前後が入れ替わったり、ひどいときにはまったく消滅してしまったりもする。ないはずのものが付け加えられたりもする。人はたぶん、時間をそのように勝手に調整することによって、自らの存在意義を調整しているのだろう。別の言い方をすれば、そのような作業を加えることによって、かろうじて正気を保っていられるのだ。もし自分がくぐり抜けてきた時間を、順序通りにそのまま均一に受け入れなくてはならないとしたら、人の神経はとてもそれに耐えられないに違いない。そんな人生はおそらく拷問に等しいものであるだろう。天吾はそう考える。
人は脳の拡大によって、時間性という観念を獲得できたわけだが、同時に、それを変更調整していく方法をも身につけたのだ。人は時間を休みなく消費しながら、それと並行して、意識によって調整を受けた時間を休みなく再生産していく。並大抵の作業ではない。脳が身体の総エネルギーの四十パーセントを消費すると言われるのも無理はない。
一歳半だかせいぜい二歳だかのときの記憶は、本当に自分が目にしたものなのだろうか、と天吾はよく考える。母親が下着姿で、父親ではない男に乳首を吸わせている情景。腕は男の身体にまわされている。一歳か二歳の幼児にそこまでの細かい見分けがつくものだろうか。そんな光景がありありと細部まで記憶できるものだろうか。それは後日、天吾が自分の身を護るために都合よく作り上げたフェイクの記憶ではないのか。
それはあり得るかもしれない。自分があの父親と称する人物の生物学上の子供ではないことを証明するために、別の男(可能性としての実の父親)の記憶を、天吾の脳はどこかの時点で無意識のうちにこしらえたのだ。そして「父親と称する人物」を緊密な血液のサークルの中から排除しようとした。どこかに生きているはずの母親と、真の父親という仮説的存在を自分の中に設定することで、限定された息苦しい人生に新しいドアを取りつけようとしたわけだ。
しかしその記憶には、生々しい現実感が伴っていた。たしかな感触があり、重みがあり、匂いがあり、奥行きがあった。それは廃船についた牡蠣のように、彼の意識の壁にとんでもなく強固にへばりついていた。どれだけ振り落とそうとしても、洗い流そうとしても、はがすことはできなかった。そんな記憶が自分の意識が必要に応じて作り上げた、ただのまがいものであるとは、天吾にはどうしても考えられなかった。架空のものにしてはあまりにもリアルすぎるし、強固過ぎる。
それが本物の、実際の記憶であると考えてみよう。
赤ん坊である天吾はその情景を目にして、きっと怯えたに違いない。自分に与えられるべき乳房を、誰か別の人間が吸っている。自分よりも大きく強そうな誰かが。そして母親の脳裏からは自分の存在が、たとえ一時的にせよ消えてしまっているように見える。それはひ弱な彼の生存を根本から脅かす状況である。そのときの根元的な恐怖が、意識の印画紙に激しく焼きつけられてしまったのかもしれない。
そしてその恐怖の記憶は、予想もしないときに唐突によみがえり、鉄砲水となって彼を襲った。パニックにも似た状態を天吾にもたらした。それは彼に語りかけ、思い出させた。お前はどこに行こうと、何をしていようと、この水圧から逃げ切ることはできないのだ。この記憶はお前という人間を規定し、人生をかたちづくり、お前を[#傍点]ある決められた場所[#傍点終わり]に送り込もうとしている。どのようにあがこうと、お前がこの力から逃れることはできないのだ、と。
それから天吾はふと思った。ふかえりの着ていたパジャマを洗濯機の中から取り上げ、鼻にあてて匂いを嗅いでしまうとき、おれはあるいはそこに母親の匂いを求めていたのかもしれない。そんな気がした。しかしどうしてよりによって、十七歳の少女の身体の匂いに、去っていった母親のイメージを求めなくてはならないのか? もっとほかに求めるべき場所はあるはずだ。たとえば年上のガールフレンドの身体に。
天吾のガールフレンドは彼より十歳年上だったし、彼の記憶している母親の乳房に近い、かたちの良い大きな乳房を持っていた。白いスリップも似合った。しかし天吾はなぜか彼女に母親のイメージを求めることはない。その身体の匂いに興味を持つこともない。彼女はとても効果的に、天吾の中から一週間分の性欲を搾り取っていった。天吾も彼女に(ほとんどの場合)性的な満足を与えることができた。それはもちろん大事な達成だった。しかし二人の関係には、それ以上の深い意味は含まれていなかった。
彼女が性行為の大半の部分をリードした。天吾はほとんど何も考えず、彼女に指示されるままに行動した。何を選択する必要もなく、判断する必要もなかった。彼に要求されているのはふたつだけだった。ペニスを硬くしておくことと、射精のタイミングを間違えないことだ。「まだだめよ。もう少し我慢して」と言われれば、全力を尽くして我慢した。「さあ今よ。ほら、早く来て」と耳元で囁かれると、その地点で的確に、できるだけ激しく射精した。そうすれば彼女は天吾をほめてくれた。頬を優しく撫でながら、天吾くん、あなたって素晴らしいわよ、と言ってくれた。そして的確さの追求は、天吾が生来得意とする分野のひとつだった。正しい句読点を打ったり、最短距離の数式を見つけ出すこともそこに含まれる。
自分より年下の女性とセックスをするときには、そうはいかない。始めから終わりまで彼がいろんなことを考え、様々な選択をおこない、判断を下さなくてはならない。それは天吾を居心地悪くさせた。様々な責任が彼の双肩にのしかかってきた。荒海に乗り出した小さな船の船長になった気分だった。舵を取ったり、帆の具合を点検したり、気圧や風向きを頭に入れておかなくてはならない。自分を律し、船員たちの信頼を高めなくてはならない。細かいミスやちょっとした手違いが惨事へと結びつきかねない。それはセックスというよりはむしろ、任務の遂行に近いものになった。その結果、彼は緊張して射精のタイミングを間違えたり、あるいは必要なときにうまく硬くならなかったりした。そして自分に対してますます懐疑を抱くことになった。
しかし年上のガールフレンドとのあいだでは、そのような手違いはまず起こらなかった。彼女は天吾の性的な能力を高く評価してくれた。常に彼を褒め、励ましてくれた。天吾が一度だけ早すぎる射精をしてからは、注意深く白いスリップを身につけることを避けた。スリップだけではなく、白い下着をつけることだってやめてしまった。
その日も彼女は黒い下着の上下を身につけていた。そして彼に入念なフェラチオをした。そして彼のペニスの硬さと、睾丸のやわらかさを心ゆくまで愉しんでいた。黒いレースのブラジャーに包まれた彼女の乳房が、口の動きにあわせて上下するのを、天吾は目にすることができた。彼は早すぎる射精を避けるために、目を閉じてギリヤーク人のことを考えた。
[#ここから1字下げ]
彼らのところには法廷などなく、裁判が何を意味するかも知らないでいる、彼らが今にいたるもなお、道路の使命を全く理解していないという一事からしても、彼らがわたしたちを理解するのがいかに困難か、わかるだろう。道路がすでに敷かれているところですら、あいかわらず密林を旅しているのだ。彼らが家族も犬も列を作って、道路のすぐそばのぬかるみを、やっとのことで通っていくのをよく見かける。
[#ここで字下げ終わり]
粗末な衣服に身を包んだギリヤーク人たちが隊列を作り、犬や女たちとともに、道路に沿った密林の中を口数少なく歩んでいく光景を想像した。彼らの時間と空間と可能性の観念の中には、道路というものは存在しなかった。道路を歩いているよりは、密林の中をひそやかに歩いている方が、たとえ不便はあっても、彼らは自分たちの存在意義をより明確に捉えることができたのだろう。
きのどくなギリヤークじん、とふかえりは言った。
天吾はふかえりの寝顔を思い浮かべた。ふかえりは大きすぎる天吾のパジャマを着て眠っていた。長すぎる袖と足元は折り返されている。彼はそれを洗濯機の中から取り上げ、鼻にあてて匂いを嗅ぐ。
そんなことを考えちゃいけないんだ、と天吾ははっと我に返って思う。しかしそのときはもう遅すぎる。
天吾はガールフレンドの口の中に激しく何度も射精した。彼女はそれを最後まで口の中に受け、それからベッドを出て洗面所に行った。彼女が蛇口をひねって水を出し、口をゆすぐ音が聞こえた。それからなにごともなかったようにベッドに戻ってきた。
「ごめん」と天吾は謝った。
「我慢できなかったのね」とガールフレンドは言った。そして指先で天吾の鼻を撫でた。「いいのよ、べつに。ねえ、そんなに気持ちよかった?」
「とても」と彼は言った。「もう少しあとでまたできると思う」
「すごく楽しみ」と彼女は言った。そして天吾の裸の胸に頬をつけた。目を閉じてそのままじっとしていた。彼女の静かな鼻息を、天吾は乳首に感じることができた。
「あなたの胸を見て、触って、私がいつもどんなものを思い出すと思う?」と彼女は天吾に尋ねた。
「わからないな」
「黒澤明の映画に出てくる、お城の門」
「お城の門」と天吾は彼女の背中を撫でながら言った。
「ほら、『蜘蛛の巣城』とか『隠し砦の三悪人』とか、そういった古い白黒映画で、大きくて頑丈な城門が出てくるじゃない。大きな鋲《びょう》みたいなのがいっぱい打ってあるやつ。いつもあれを思い出すの。がっしりして、分厚くて」
「鋲は打ってないけど」と天吾は言った。
「気がつかなかった」と彼女は言った。
ふかえりの『空気さなぎ』は単行本発売後、二週間目にベストセラー・リストに入り、三週目には文芸書部門のトップに躍り出た。天吾は予備校の教職員控え室に置いてある数紙の新聞で、その本がベストセラーになっていく経過を追っていた。新聞広告も二度出た。広告には本のカバー写真と並んで、彼女のスナップ・ショットが小さく添えられていた。見覚えのあるぴったりとした薄手のサマーセーター、美しいかたちの胸(たぶん記者会見のときに撮影されたのだろう)。肩にかかるまっすぐな長い髪、正面からこちらを見つめている一対の黒く謎めいた瞳。その目はカメラのレンズを通して、人が心の中にひっそりと抱えている何かを——普段はそんなものを抱えていると自分でも意識しない何かを——率直に見据えているように見える。中立的に、しかし優しく。その十七歳の少女の迷いのない視線は、見られているものの防御心をほどいてしまうのと同時に、いくぶん居心地の悪い気持ちにもさせた。小さな白黒写真ではあるけれど、この写真を目にしただけで、本を買ってみようかと思う人々も少なくないはずだ。
発売の数日後に小松が『空気さなぎ』を二冊郵便で送ってくれたが、天吾はそのページを開くこともしなかった。そこに印刷されている文章はたしかに自分が書いたものだったし、彼の書いた文章が単行本のかたちになるのはもちろん初めてのことだったが、それを手にとって読みたいとは思わなかった。ざっと目を通す気さえ起きなかった。本を目にしても、喜びの気持ちはわいてこなかった。たとえ彼の文章であるとしても、書かれている物語はどこまでもふかえりの物語なのだ。彼女の意識の中から生み出された話だ。彼の陰の技術者としてのささやかな役目はすでに終了していたし、その作品がこれから先どのような運命を辿ることになろうと、それは天吾には関わりのないことだった。また関わりを持つべきではないことだった。彼はその二冊の本を、ビニールに包まれたまま、本棚の目につかないところに押し込んでおいた。
アパートにふかえりが泊まった夜のあと、天吾の人生はしばらくのあいだ、何こともなく穏やかに流れた。よく雨が降ったが、天吾は天候にはほとんど関心を払わなかった。天候の問題は、天吾の重要事項リストのかなり下位の方に追いやられていた。それ以来ふかえりからはまったく連絡はなかった。連絡がないのは、たぶんとりたてて問題がないということなのだろう。
小説の執筆を日々続けるかたわら、頼まれていた雑誌用の短い原稿をいくつか書いた。誰にでもできる無署名の賃仕事だったが、それでも気分転換にはなったし、手間に比べて報酬は悪くなかった。そしていつもどおり週に三回予備校に行って数学の講義をした。彼はいろんな面倒なことを——主に『空気さなぎ』とふかえりに関することを——忘れるために、以前にも増して深く数学の世界に入り込んでいった。いったん数学の世界に入ると、彼の脳の回路が(小さな音を立てて)入れ替わった。彼の口は違う種類の言葉を発し、彼の身体は違う種類の筋肉を使い始めた。声のトーンも変わったし、顔つきも少し変わった。天吾はそのような切り替わりの感触が好きだった。ひとつの部屋から別の部屋に移っていくような、あるいはひとつの靴から別の靴に履き替えるような感覚がそこにはあった。
数学の世界に入ると彼は、日常生活の中にいるときよりも、あるいは小説を書いているときよりも、気持ちを一段階緩めることができたし、雄弁にもなった。しかしそれと同時に、自分がいくぶん便宜的な人間になったような気もした。どちらが本来の自分の姿なのか判断はできない。しかし彼はとても自然に、とりたてて意識もせず、その切り替えをおこなうことができた。そのような切り替え作業が、多かれ少なかれ自分に必要とされていることもわかっていた。
数学教師としての彼は教壇の上から、数学というものがどれくらい貧欲に論理性を求めているかということを、生徒たちの頭に叩き込んだ。数学の領域においては、証明できないことには何の意味もないし、いったん証明さえできれば、世界の謎は柔らかな牡蠣のように人の手の中に収まってしまうのだ。講義はいつになく熱を帯びて、生徒たちはその雄弁に思わず聞き入った。彼は数学の問題の解き方を実際的に有効に教授するのと同時に、その設問の中に秘められているロマンスを華やかに開示した。天吾は教室を見まわし、十七歳か十八歳の少女たちの何人かが、敬意をこめた目で自分をじっと見ていることを知った。彼は自分が数学というチャンネルを通して、彼女たちを誘惑していることを知った。彼の弁舌は一種の知的な前戯だった。関数が背中を撫で、定理が温かい息を耳に吐きかける。しかしふかえりに出会ってからは、天吾がそのような少女たちに対して性的な興味を抱くことはもうなかった。彼女たちの着たパジャマの匂いを嗅いでみたいとも思わなかった。
ふかえりはきっと特別な存在なんだ、と天吾はあらためて思った。ほかの少女たちと比べることなんてできない。彼女は間違いなくおれにとって、何らかの意味を持っている。彼女はなんて言えばいいのだろう、おれに向けられたひとつの総体的なメッセージなのだ。それなのにどうしてもそのメッセージを読み解くことができない。
しかし、ふかえりに関わるのはもうよした方がいい、というのが彼の理性がたどり着いた明快な結論だった。書店の店頭に積み上げられた『空気さなぎ』や、何を考えているのかわからない戎野先生や、不穏な謎に満ちた宗教団体からもできるだけ遠ざかった方がいい。小松とも、少なくとも当分のあいだは距離を置いた方がいい。そうしなければ、ますます混乱した場所へと彼は運ばれていくことだろう。論理のかけらもないような危険な一角に押しやられ、抜き差しならない状況に追い込まれてしまうだろう。
しかし今この段階で、その入り組んだ陰謀から身を引くのが簡単ではないことは、天吾にもよくわかっていた。彼は既に[#傍点]それ[#傍点終わり]に関わってしまった。ヒッチコック映画の主人公たちのように、知らないうちに何かの陰謀に巻き込まれたのではない。ある程度のリスクが含まれていることは承知の上で、自分で自分を巻き込んだのだ。その装置はもう動き出してしまった。いったん勢いのついたものを止めることはできないし、天吾は疑いの余地なくその装置の歯車のひとつになっている。それも[#傍点]主要な[#傍点終わり]歯車のひとつに。彼はその装置の低いうなりを聞き取り、執拗なモーメントを身の内に感じ取ることができた。
小松が電話をかけてきたのは、『空気さなぎ』が二週続けて文芸書ベストセラーの一位になった数日後だった。夜中の十一時過ぎに電話のベルが鳴った。天吾は既にパジャマに着替え、ベッドに入っていた。うつぶせになってしばらく本を読み、そろそろ枕もとの明かりを消して眠ろうとしたところだった。ベルの鳴り方から、相手が小松であることは想像がついた。うまく説明できないのだが、小松のかけてくる電話はいつだってそれとわかる。ベルの鳴り方が特殊なのだ。文章に文体があるように、彼がかけてくる電話は独特なベルの鳴り方をする。
天吾はベッドを出て台所に行き、受話器をとった。本当はそんなものを取りたくなかった。このまま静かに寝てしまいたかった。イリオモテヤマネコだか、パナマ運河だか、オゾン層だか、松尾芭蕉だか、なんでもいいからとにかくここからできるだけ遠くにあるものについての夢を見ていたかった。しかしもし今受話器をとらなかったら、十五分か三十分後に再び同じようにベルが鳴り出すことだろう。小松には時間の観念というものがほとんどない。通常の生活を送っている人間に対する思いやりの気持ちなんてさらさらない。それなら今電話に出た方がまだましだ。
「よう天吾くん、もう寝てたか?」と小松は例によってのんびりした声で切り出した。
「寝かけていたところです」と天吾は言った。
「それは悪かったな」と小松はあまり悪くなさそうに言った。「『空気さなぎ』の売れ行きがずいぶん好調だと、ひとこと言いたくてね」
「それはなによりです」
「ホットケーキみたいに作るそばからどんどん売れている。作るのが追いつかなくて、気の毒に製本所は徹夜で仕事をしている。まあ、かなりの部数が売れるだろうってことは前もって予想はしていたよ、もちろん。十七歳の美少女の書いた小説だ。話題にもなっている。売れる要素は揃っている」
「三十歳の、熊みたいな予備校講師の書いた小説とはわけが違いますから」
「そういうことだ。とはいえ、娯楽性に富んだ内容の小説とは言い難い。セックス・シーンもないし、涙を流すような感動の場面もない。だからここまで派手に売れるとはさすがの俺も想像しなかった」
小松は天吾の反応を見るようにそこで間を置いた。天吾が何も言わないので、彼はそのまま話を続けた。
「それに、ただ単に数が売れているというだけじゃないんだ。評判だって素晴らしい。そのへんの若いのが思いつきひとつで書いた、話題性だけのちゃらちゃら小説とはものが違う。なんといっても内容が優れている。もちろん天吾くんの手堅く見事な文章技術が、それを可能たらしめたわけだけどな。いや、あれはまさに完壁な仕事だった」
[#傍点]可能たらしめた[#傍点終わり]。天吾は小松の賞賛を聞き流しながら、指先でこめかみを軽く押さえた。小松が天吾の何かを手放しで褒めるとき、そのあとには決まってあまり好ましくない種類の知らせが控えている。
天吾は言った。「それで小松さん、悪い方のニュースはどんなことなんですか?」
「どうして悪い方のニュースがあるってわかるんだ?」
「だって、この時間に小松さんが僕のところに電話をかけてくるんですよ。悪いニュースがないわけがないでしょう」
「たしかに」と小松は感心したように言った。「たしかにそのとおりだ。天吾くんはさすがに勘がいい」
そんなもの勘じゃない、ただのしがない経験則だ、と天吾は思った。しかし何も言わずに相手の出方を待った。
「そのとおり。残念ながら、あまり好ましくないニュースがひとつある」と小松は言った。そしていかにも意味ありげに間を置いた。彼の一対の目が、暗闇の中でマングースの瞳のようにきらりと光るところが、電話口で想像できた。
「おそらくそれは『空気さなぎ』の著者に関することですね」と天吾は言った。
「そのとおり。ふかえりに関することだ。いささか弱ったことになった。実を言うとね、彼女の行方がしばらくわからなくなっている」
天吾の指はこめかみを押さえ続けていた。「しばらくって、いつから?」
「三日前、水曜日の朝に彼女は奥多摩の家を出て、東京に行った。戎野先生が彼女を送り出した。どこに行くとも言わなかった。電話がかかってきて、今日は山奥の家には戻らず、信濃町のマンションに泊まると言った。マンションにはその日、戎野先生の娘も泊まることになっていた。しかしふかえりはいつまでたってもマンションには帰ってこなかった。それ以来連絡が途絶えている」
天吾はこの三日間の記憶を辿った。しかし思い当たるところはなかった。
「杳《よう》として行方が知れない。それで、ひょっとして天吾くんのところに連絡がなかったかと思ってね」
「連絡はありません」と天吾は言った。彼女が天吾のアパートで一晩を過ごしたのはたしかもう四週間以上前のことだ。
信濃町のマンションに帰らない方がいいと思うと、そのときにふかえりが言ったことを、小松に教えるべきだろうかと天吾は少し迷った。彼女はその場所に何かしら不吉なものを感じていたのかもしれない。しかし結局黙っていることにした。ふかえりを自分の部屋に泊めたことを小松に言いたくなかった。
「変わった子です」と天吾は言った。「連絡も入れずに、一人でどこかにふらつと行ってしまったかもしれませんよ」
「いや、それはない。ふかえりって子には、ああ見えてずいぶん律儀なところがあるんだ。居場所はいつも明確にしている。しょっちゅう電話をかけて、今どこにいて、いつどこに行くというような連絡をしてくる。戎野先生はそう言っていた。だから丸三日まったく連絡がないというのは、ちと普通じゃないことなんだ。まずいことが起こったのかもしれない」
天吾は低くうなった。「まずいこと」
「先生も娘もとても心配している」と小松は言った。
「いずれにせよ、彼女の行方がこのままわからなくなったら、小松さんはきっと困った立場に置かれるんでしょうね」
「ああ、もし警察沙汰になったら、それはずいぶんややこしいことになるだろうな。なにしろベストセラー街道を突っ走る本を書いた美少女作家が失踪したんだ。マスコミが色めき立つことは目に見えている。そうなったら担当編集者としてこの俺があちこちに引っ張り出されて、コメントを求められたりするだろう。そいつはどうにも面白くない。俺はあくまで陰の人間だからね、日の光には馴染まない。それにそんなことをしているうちに、どこでどんな風に内幕が暴き出されるか、わかったものじゃない」
「戎野先生はどう言っているんですか?」
「明日にも警察に捜索願を出すと言っている」と小松は言った。「なんとか頼み込んでそいつは数日遅らせてもらった。しかしそう長くは引っ張れそうにない」
「捜索願が出されたことがわかると、マスコミが出てくるんでしょうね」
「警察がどう対応するかはわからないが、ふかえりは時の人だ。ただのティーンエージャーの家出とはわけが違う。世間に隠しきることはむずかしかろうな」
あるいはそれこそが、戎野先生が望んでいたことなのかもしれない、と天吾は思った。ふかえりを餌にして世間に騒ぎを起こし、それを挺子に「さきがけ」と彼女の両親との関係を明らかにし、彼らの居場所を探り当てること。もしそうだとしたら、先生の計画は今のところ予想通りの展開を見せていることになる。しかしそこにどれほどの危険性が含まれているのか、先生には把握できているだろうか? たぶんそれくらいはわかっているはずだ。戎野先生は無考えな人間ではない。そもそも深く考えることが彼の仕事なのだ。そしてふかえりを巡る状況には、天吾が知らされていない重要な事実がまだいくつもありそうだった。天吾は言うなれば、揃っていないピースを渡されて、ジグソー・パズルを組み立てているようなものだ。知恵のある人間は最初からそんな面倒には関わり合いにならない。
「彼女の行き先について、天吾くんに何か心当たりはないか?」
「今のところはありません」
「そうか」と小松は言った。その声には疲労の気配がうかがえた。小松が弱みを表に出すのはあまりないことだった。「夜中に起こして悪かったね」
小松が謝罪の言葉を口にするのもかなり珍しいことだ。
「いいですよ、事情が事情だから」と天吾は言った。
「俺としちゃ、できればこういう現実的なごたごたには天吾くんを巻き込みたくなかった。君の役目はあくまで文章を書くことであって、その勤めはしっかり果たしてくれたわけだからな。しかし世の習いとして、ものごとはなかなかすんなりとは収まらない。そしていつかも言ったように、俺たちはひとつのボートに乗って急流を流されている」
「一蓮托生」と天吾は機械的に言葉を添えた。
「そのとおり」
「しかし小松さん、ふかえりの失踪がニュースになれば、『空気さなぎ』が更に売れるんじゃないんですか?」
「もうじゅうぶん売れてるよ」と小松はあきらめたように言った。「これ以上の宣伝はいらない。派手なスキャンダルは面倒のタネでしかない。我々としてはむしろ平穏な着地先について考えなくちゃならないところだ」
「着地先」と天吾は言った。
架空の何かを喉に飲み込むような音を、小松は電話口で立てた。それから一度小さく咳払いをした。「そのへんのことについては、またいつか飯でも食ってゆっくり話をしよう。今回のごたごたが片づいてからな。お休み、天吾くん。ぐっすり眠るといい」
小松はそう言って電話を切ったが、まるで呪いでもかけられたみたいに、天吾はそのあと眠れなくなった。眠いのだが、眠ることができない。
何が「ぐっすり眠るといい」だ、と天吾は思った。台所のテーブルに座って仕事をしようと思った。しかし何も手につかなかった。戸棚からウィスキーの瓶を出し、グラスに注いでストレートで小さく一口ずつ飲んだ。
ふかえりは設定どおり生き餌としての役割を果たし、教団「さきがけ」が彼女を誘拐したのかもしれない。その可能性は小さくないように天吾には思えた。彼らは信濃町のマンションを見張っていて、ふかえりが姿を見せたところを数人で力ずくで車に押し込み、連れ去った。素速くやれば、そして状況さえうまく選べば、決して不可能なことではない。ふかえりが「信濃町のマンションには帰らない方がいい」と言ったとき、彼女はそのような気配を感じとっていたのかもしれない。
リトル・ピープルも空気さなぎも実在する、とふかえりは天吾に言った。彼女は「さきがけ」というコミューンの中で盲目の山羊を誤って死なせ、その懲罰を受けているときに、リトル・ピープルと知り合った。彼らと共に夜ごと空気さなぎをつくった。そしてその結果彼女の身に何か大きな意味を持つことが起こった。彼女はその出来事を物語のかたちにした。天吾がその物語を小説のかたちに整えた。言い換えれば[#傍点]商品のかたち[#傍点終わり]に変えたわけだ。そしてその商品は(小松の表現を借りるなら)ホットケーキのように作るそばから売れている。「さきがけ」にとって、それは都合の悪いことであったのかもしれない。リトル・ピープルと空気さなぎの物語は、外部に明かしてはならない重大な秘密であったのかもしれない。だから彼らは秘密のこれ以上の漏洩を阻止するためにふかえりを誘拐し、その口を塞がなくてはならなかった。もし彼女の失踪が世間の疑惑を呼ぶことになったとしても、それだけのリスクを冒しても、実力行使に及ばないわけにはいかなかったのだ。
しかしそれももちろん、天吾の立てた仮説に過ぎない。差し出せるような根拠はないし、証明することも不可能だ。声を大にして「リトル・ピープルと空気さなぎは実在します」なんて人々に告げたところで、どこの誰がそんな話に取り合ってくれるだろう? だいいちそれらが「実在する」というのが具体的にどんなことを意味しているのか、天吾自身にだってよくわからないのだ。
それともふかえりは、ただ『空気さなぎ』のベストセラー騒ぎにうんざりして、どこかに一人で雲隠れしたのだろうか。もちろんそういう可能性は考えられる。彼女の行動を予測するのはほとんど不可能に近い。しかしもしそうだったとしても、彼女は戎野先生やその娘のアザミに心配をかけないように、何かしらのメッセージは残していくはずだ。そうしてはならない理由は何ひとつないのだから。
しかしもしふかえりが本当に教団に誘拐されたのだとしたら、彼女の身が少なからず危険な状況に置かれるであろうことは、天吾にも容易に想像がついた。両親の消息がある時点からまったく知れなくなったのと同じように、彼女の消息だってそのまま絶たれてしまうかもしれない。ふかえりと「さきがけ」との関係が明らかになり(明らかになるまでにさほど時間はかかるまい)、そのことでマスコミがいくら騒ぎ立てても、警察当局が「誘拐されたという物的証拠はない」として取り合わなければ、すべては空騒ぎに終わってしまう。彼女は高い塀で囲まれた教団内のどこかに幽閉監禁されたままになるかもしれない。あるいはもっとひどいことになるかもしれない。戎野先生はそういう最悪のシナリオを折り込んで計画を立案したのだろうか。
天吾は戎野先生に電話をかけて、そのようなあれこれについて話をしたかった。しかし時刻は既に真夜中を過ぎていた。明日まで待つしかない。
天吾は翌日の朝、教えられていた番号を回し、戎野先生の家に電話をかけた。しかし電話はつながらなかった。「この電話番号は現在使用されておりません。番号をもう一度お確かめの上、おかけなおしください」という電話局の録音メッセージが繰り返されるだけだ。何度かけなおしても結果は同じだった。たぶんふかえりのデビュー以来、取材の電話が殺到したので電話番号を変更したのだろう。
それから一週間、変わったことは何ひとつ起こらなかった。『空気さなぎ』が順調に売れ続けていただけだ。相変わらず全国ベストセラー・リストの上位に位置していた。そのあいだ天吾のところには、誰からの連絡もなかった。天吾は何度か小松の会社に電話をかけたが、彼はいつも不在だった(それは珍しいことではない)。電話をかけてほしいという伝言を編集部に残したが、電話は一度もかかってこなかった(それも珍しいことではない)。毎日欠かさず新聞に目を通していたが、ふかえりの捜索願が出されたというニュースは見あたらなかった。戎野先生は結局、捜索願を警察に出さなかったのだろうか。あるいは出すには出したが、警察が秘密裏に捜査を進めるために公表を控えているのだろうか。それともよくある十代の少女の家出のひとつとして、真剣に相手にしてもらえなかったのか。
天吾はいつもどおり週に三日予備校で数学の講義をし、それ以外の日々は机に向かって長編小説を書き進め、金曜日にはアパートを訪ねてくるガールフレンドと濃密な昼下がりのセックスをした。しかし何をしていても、気持ちをひとところに集中することができなかった。厚い雲の切れ端を何かと間違えて呑み込んでしまった人のように、すっきりとしない、落ち着かない気持ちで日々を過ごした。食欲も徐々に減退していった。夜中のとんでもない時刻に目が覚めて、そのまま眠れなくなった。眠れないまま、ふかえりのことを考えた。彼女が今どこにいて何をしているのか。誰と一緒にいるのか。どんな目にあっているのか。様々な状況を頭の中で想像した。どれも多少の差こそあれ、悲観的な色あいを帯びた想像だった。そして彼の想像の中では、彼女は常にぴったりとした薄手のサマーセーターを着て、胸のかたちをきれいに見せていた。その姿は天吾を息苦しくさせ、いっそう激しい騒擾《そうじょう》を心に作り出した。
ふかえりが連絡をしてきたのは、『空気さなぎ』がベストセラー・リストに腰を据えたまま六週目を迎えた木曜日のことだった。